今日、9月21日は、私の心の師である、宮澤賢治先生の命日です。
先生は、明治29年(1896年)8月27日生まれで、昭和8年(1933年)に亡くなられましたので、享年は37歳に成ります。
先生の作品との出会いで、一番古い記憶は、幼稚園に通って居た頃に、伯母に連れられて『セロ弾きのゴーシュ』の人形劇を観に連れて行って貰った事です。
その帰りに、伯母が先生の童話集を買って呉れたのですが、それは小学生の高学年向けの本であった為に、自分では読む事が出来ませんでしたので、私は間が在れば読んで呉れる様に伯母にせがみ、一つの話を読み終えるまで伯母にせがみ続けましたので、伯母を困らせて居りました。
未亡人であった伯母は、当時、私等家族と同居して居り、仕事で忙しい両親に代わって、幼い私等の面倒を看て呉れて居たのでした。
小学校に上がってからは、徐々に自分でも読める様に成りましたので、先生の童話作品の殆どを読み終えましたし、中学にあがると詩集や、先生に関連した書物も読み漁り、憧憬は更に深まり、目を閉じれば、先生が跋渉した岩手の野山を目の当たりにした様に思い浮かべる事が出来ましたし、思いを巡らせば、イーハトーブの野や山や川や街並みや、鳥や動物や働いて居る人々の姿や、そこを駆け回っている自分の姿さえ覗き見る事が出来ました。
以前の記事でも触れましたが、小学6年生の頃まで吃音症が酷かった私は、人と話をする事が苦手で、自然と人との付き合いも億劫になり、幼少の頃から習って居りました渋川一流柔術や柔道の練習などアクティブな面も在りましたが、幼少の頃から習って居りました絵画や、小学生に成って習い始めた書道や、独りで読書に勤しむ事の多い少年時代を過ごして居りましたので、宮沢賢治と言う存在は、「私」と言う人格を形成する中で、極めて大きな存在で在ったと思います。
大学に進学してからは、先生の墓参りをさせて戴いたり、生家や記念館を訪ねたり、先生の足跡を辿って岩手県の各地に何度も足を運びました。
先生は、ヤドリギが好きだったそうです。
先生の作品の中にもヤドリギが度々登場しますし、ヤドリギに纏わる多くのエピソードも残って居ります。
その理由については存じませんが、栗や楢や桜などに寄生する常緑小低木であるヤドリギは、冬には枯れて仕舞った宿主の木の高い枝の上で、青々とした姿を冬の空に浮かび上がらせ、その姿は、我が国では古より、不老長寿に通ずる常緑信仰の対象とされて居りますし、西洋でも神聖な木とされて居ります。
そうした生命力の強さが、健康とは縁遠かった先生の心を魅了したのかも知れません。
毎年、先生の命日には、山にヤドリギを採りに行き、仏前に供え、先生も詠まれたであろう法華経の如来寿量品と観世音菩薩普門品(観音経)を唱んで冥福を祈念し、亡き師を偲んで居りました。
足を悪くしましてからは、高い木の上に在るヤドリギを採る事も叶いませんし、山へ登る事も儘成らなくなりました。
先生の命日の9月21日は、秋の彼岸と言う事も在り、おはぎを作って仏壇に供えて居りました。
しかし、今年は仕事の為に、廿日市市の大野町に泊り込みで来て居りまして、それも叶いません。
今朝方、目覚めました折に、東の空に向かって手を合わせ法華経を唱んで冥福を祈念致しました。
しかし、それを予感為さって居られたのでしょうか、幾つかの作品の中に、戦争に対する思いを現されたモノも在りますし、羅須地人協会の活動に於いても軍国主義化を危惧されて居られた事が伺えます。
もし、もう少し長生きをされて居たら、どれ程、心を痛められたでしょうか。
世界がぜんたい 幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない
この言葉は、農民芸術概論綱要(1926年)の序論の中で語られた言葉です。
この言葉は、「雨ニモマケズ」と共に、私の指針と成って居ます。
今の日本の現状を観られたら、どの様に考え、どの様に語られるでしょうか。
先日、安全保障関連法が、参院本会議で自民・公明両党などの賛成多数で可決され成立しまた。
私は、戦争を望みませんし、原子力の平和利用についても、本音の部分では反対ですが、安全保障関連法については、基本の部分では賛成です。
現在の国際情勢、取り分け、日本を取り巻く、支那(中国)・韓国・北朝鮮・ロシアなどの近隣諸国の横暴な動きを見れば、代替案も提示せずに「安保反対」を唱えて悪戯に国会の会期を延ばして国税を浪費しながら、無力な醜態を晒した野党よりは、極めて現実的な選択で在ったと考えて居ます。
どの様に運用して行くか、或いは、戦争を回避する為に、如何なる国策を立てて実行し、如何なる外交を展開して行くかが重要なので在ると考えます。
マハトマ・ガンディーやキング牧師が行った非暴力主義は、国内における活動であり、国と国との命の取り合いである戦争に於いては、なめて掛かられ、滅びの道を歩むだけです。
以前の記事でも触れました、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が、越境して進行した最大の理由は、ソ連が、「日本には反撃する余力が無い」と判断し、「今遣らなければ損をする」と考えたからに他成りません。
その結果、どの様な悲惨な目にあわされたかを、戦後70年経った今こそ、思い起こし、伝えて行かなければ成らないと思います。
もっと言及すれば、アメリカが広島や長崎に原爆を投下出来た最大の理由も、「日本本土に原爆を使用しても、日本には、アメリカ本土に反撃する能力が無い」と言う事をよく分かって居たからです。
様々な立場や考えの人間が、色々な意見を戦わせ、議論し合い、程好い場所で折り合いながら道を選択し方向を定めて行く所が、民主主義の良い所なのですから・・・。
奇しくも、9月21日は、安倍晋三首相の誕生日でも在ります。
唱和29年(1954 年)生まれですから、61歳を迎えられたのだと思います。
私は、自民党や公明党の支持者では在りませんが、我が国の復興の為に、更なる尽力をなさる事を願って居ります。
私が37歳に成ったのは、平成10年(1998年)の事でした。
漸く、先生と同じ歳に成れたと、感慨深いモノが在りました。
聖人である先生と比べるべくも無い人生ですが、一つだけ優って居る事が在ります。
2回の結婚で、娘を1人、息子を3人授かった事です。
残念ながら、最初の結婚では妻が早死にし、2回目の結婚では、価値観の違いから7年前に離婚致しましたが、どちらも素敵な女性でしたから、巡り会いに感謝して居ります。
今日も、ホテルで行われる結婚式の披露宴で出される、懐石料理や舟盛りの料理請負の仕事をさせて戴きましたが、若いカップルが、最後まで添い遂げられる事を願いながら、料理を作らせて戴いたのでした。