アジアの片隅より…Second
2015-10-20T02:17:51+09:00
ajianokatasumiyor
愚者のブログ
Excite Blog
原発、再稼働に思う事
http://kishouhaji.exblog.jp/22329827/
2015-10-16T08:00:00+09:00
2015-10-16T11:58:20+09:00
2015-10-16T03:44:18+09:00
ajianokatasumiyor
思った事
原発の再稼働に関するアンケート 此方から寸借
川内原発2号機は、14日に再稼働前のすべての検査を終え、九州電力は検査で問題がなかったとして、15日午前10時半に原子炉を起動、再稼働させました。
関連記事
NHK NEWS ・・・此方をクリック
ANN NEWS ・・・此方をクリック
東洋経済・・・此方をクリック
高校生の時、平和運動に参加して居た私は、昭和31年(1956年)
に、原爆資料館で「原子力平和利用博覧会」が開催されて居た事を知り、非常に驚いたのを覚えて居ます。
中国新聞より・・・此方をクリック
広島の人は、「核」に関して、他の地域の人よりも、強い反感を持って居ると思って居ましたし、増してや戦後10年程の事ですし、反核の象徴とも言える原爆資料館で開催されたと言うのは驚きでしか在りませんでした。
高い技術力を見せつけ、核の平和利用の素晴らしさをアピールした博覧会だった様ですが、核の平和利用の名の下に、原子爆弾によって大量虐殺をしたアメリカが「罪」を誤魔化す為と、核の技術を日本に売り込む為のプロパガンダの一環だった様です。
その成果も功を奏し、昭和38年(1963年)に、日本で最初の原子力発電が、東海村に建設された動力試験炉であるJPDRが初発電を行い、これ以後、日本各地に原子力発電所が建設されていく事に成ります。
日本の原子力発電所・・此方をクリック
私が子供の頃と言うと、もう50年近くに成りますが、「核の平和利用」と言う事が矢鱈と叫ばれて居た様に思います。
教科書の中にも、「原子力によって資源の少ない日本にも明るい未来」と、言う様な内容が書かれて居た記憶が在ります。
今、様々な資料などを読みましても、当時から、核の平和利用に内在する危険性や放射性廃棄物の処理の問題は熟知されながらも、将来の技術の開発によって解決出来ると本当に信じていたのか、そう言って誤魔化して居たのかは分かりませんが、「将来なんとか出来る」と先送りにして原発を建て続けて、未だに、その構図は変わって居ない様です。
原発の再稼働に反対するする人達 此方より寸借
私は、「核の平和利用」について、反対です。
レントゲンにさえ、嫌悪感を抱いて居ます。
きっと、被爆者である父の子として生まれ、広島の地で育ったからだと思います。
しかし、今、原発を再稼働する事には反対出来ません。
今、日本中に、「原発反対」「再稼働反対」と、叫んで居る人々が居ます。
その人達は口々に、「地球の環境を守る為に・・・」「子供達の未来を守る為に・・・」と叫びます。
尤もな意見ですし、私自身、「それが出来たらどんなに良いだろう」と、心から思っています。
恐らく、原発を推進して居る政治家や財界人も、心の奥では、そう思って居ると思います。
原発や再稼働に反対する人も賛成する人も、理由は様々です。
どちらの意見も、一利も二利も有り、どちらが正しいとも言えません。
私が、原発を再稼働する事には反対出来ない理由は、「今、原発を永久に停止する事が決まれば、日本の国家が破滅する」と思うからです。
私は、専門家では在りませんし、数字に疎い人間ですので、正確な事は分かりませんが、以前、日本原電が、東海の廃炉費用を計850億円と見込み、2020年度までに終了させる予定で、中部電力は、浜岡1、2号機の2基で841億円かかると想定し、36年度までに終える計画であると発表した事が在りました。
此れは厭くまでも概算で在って、実際は、此の何倍も掛かるかも知れませんし、そこから出る放射性廃棄物の処理費用や、実は、その処理方法さえ決まって居ません。
日本中に60基程在る原発を停止して廃炉にしたら、どれだけの費用が掛かるでしょう?
年間の維持管理費用は、恐らく、国家予算を脅かす様な、莫大な金額に成ると思います。
此れは、利益を生み出さない、「負の資産」です。
それを、電力会社と国が背負う事に成ります。
当然、電力会社の株価は大暴落して利益は無くなり、倒産する電力会社が出るでしょう。
電力会社を倒産させる訳には行きませんので、国が尻拭いをするでしょうが、容易に拭いきれる額では無いかも知れません。
バブル崩壊やリーマンショックの比では無いでしょう。
中国経済が崩壊するよりも、大きな打撃を受けるでしょう。
冷静に考えれば、私の様な愚者にも分かる事だと思います。
だから、今、原発を再稼働する事には反対出来ないのでした。
今は、原発を再稼働し、原発に頼りながら、技術革新を推し進め、原発に頼らなくても大丈夫な体制を構築しながら、徐々に原発を減らして行くしか、選択の余地は無いと考えます。
今、「原発反対」「再稼働反対」と叫ぶ事は、国益を損ね、国を滅ぼす事に繋がります。
彼等は、その事を解って居るのでしょうか?
目先の事に囚われて、日本を滅ぼそうとしている何者かに操られて居るのでしょうか?
「核の平和利用」と言う、麻薬に手を染めた日本は、今は、その毒性を知りながらも、自力で脱却する力を身に着けるまでは、使い続けるしか無いのだと思います・・・今は・・・。
「再稼働反対」と、叫んで居る人々をニュース映像で視ながら.
『何で60年前に、「核の平和利用」に反対して呉れんかったんじゃろう・・・日本は原爆を落とされた国じゃのに・・・』と、思って居りました。・ ・ ・ アジアの片隅より
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開催記事の移動について
http://kishouhaji.exblog.jp/22301244/
2015-10-10T15:30:00+09:00
2015-10-10T15:10:18+09:00
2015-10-10T15:10:18+09:00
ajianokatasumiyor
お知らせ
・・・お知らせ・・・
「アジアの片隅より…Second」 を、 「アジアの片隅より」 のサブブログとして、2015年9月1日に開設致しましたが、此方では、私がライフワークとして居ります『三元派北斗流推命術』や、『子授け整体』に関連した記事や、これらの立場から、世の中で見聞きし出会った事柄について書いて行く事に致しました。
これを機に、「アジアの片隅より」に掲載して居りました、これ等に関連した記事を、「アジアの片隅より…Second」に移し、2つのブログの色分けを計る事に致しました。
どちらのブログも、マニアックで十人向きする内容では在りませんが、暇な時にでも、気が向きましたら訪ねてくだされば幸いです。・ ・ ・ アジアの片隅より
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子育て支援に思う事・・・其の1
http://kishouhaji.exblog.jp/22279158/
2015-10-06T20:17:00+09:00
2015-10-07T08:23:32+09:00
2015-10-06T20:17:57+09:00
ajianokatasumiyor
子授け整体
少子化対策について語る小泉進次郎議員 此方から寸借
先月の24日、安倍晋三首相は、自民党本部で記者会見し、新たな「3本の矢」の政策で全ての人が活躍できる「1億総活躍社会」を目指すと表明しました。
新3本の矢は、①希望を生み出す強い経済、②夢を紡ぐ子育て支援、③安心につながる社会保障で、「介護離職ゼロ」のほか、出産を望む女性のみを対象に算出する希望出生率を1.8まで引き上げる目標などを打ち出しました。
此れに対して、内閣府の小泉進次郎政務官は5日の講演で、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の少子化対策について、「私の考えとは違う」と異論をとなえました。
日テレ NEWS 24 ・・・詳細記事は此方をクリック
私も、小泉進次郎氏の考え方に、概ね賛成です。
政府が提唱する「子育て支援対策」では、功を奏さないと考えますし、これまで行われた対策は、若干の伸びは在るものの、実感できる程の効果を得る事は出来ませんでした。
9月27日のブログ記事で、『10年・50年・100年先の日本の将来を見据えた政策を展開して行き、1・8から2・0へ、最終的には、合計特殊出生率を1950年代の3・0程度まで引き上げる事に由って、人口を増加させ、移民や出稼ぎ労働者ばかりに頼ろうとせず、様々な諸問題を解決して行くべきだと考えて居ります。』と、申しましたが、国が国として成り立つ為には、最も基本に置くべき事で在り、最重要課題で在ると考えます。
太宰治の代表作「斜陽」の中に、「この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです。」と、在りますが、真に、その通りだと思います。
合計特殊出生率とは、人口統計上の指標で、一人の女性が一生に産む子供の平均数を示し、この指標によって、異なる時代、異なる集団間の出生による人口の自然増減を比較・評価する事が出来ます。
戦後のベビーブームの1947年には、合計特殊出生率は、4.54で出生数は、2,678,792人でした。
一方、合計特殊出生率が最も低かった、2005年には、合計特殊出生率は、1.26で出生数は、1,062,530人でしたが、2013年には、合計特殊出生率は、1.43で出生数は、1,029,816人で、合計特殊出生率は若干上がってはいるものの、出生数は減少しているのでした。
単純に考えて、結婚した夫婦が、子供を2人もうければ、その夫婦に限って言えば、人口は現状維持に成ります。
しかし、結婚しても子供を授からない夫婦や、結婚しても子供を作らない夫婦が在りますし、結婚しない人の割合も多いので、子供を2人産んだのでは人口は減少して行きます。
「このままでは日本は滅んで仕舞う」
私は、本当に、危惧して居ります。
学生時代に、夜学の柔道整復師の専門学校へ通って資格を取得し、本業の傍らで、知り合いの接骨医院等で柔道整復師として従事して居りましたし、平成19年から、事故で足が不自由になる4年前まで、接骨医院を開業して居りました。
大阪で証券関係の会社に勤めて居りました頃、不妊症で悩む知人夫婦から相談を受けて、脊椎や骨盤の矯正をして血行の改善を図った処、程無く妊娠・出産をされました。
それ以後、経験や研究を重ねて行く中で、確立したのが、「妊娠し易い身体造り・子授け整体」でした。
しかし、「子授け整体」とは申しましても、脊椎や骨盤の矯正をして血行の改善を図る施術も致しますが、大半は、日常生活の過ごし方や食生活・性生活についてのアドバイス、それだけなら未だしも、気功術の呼吸法や風水上の方位や、仏壇を買い備え墓参りをして先祖供養をする等、かなり怪しげな指導や行いを求めますので、疑念を抱かれる事ばかりですし、接骨医院を廃業してからは、医療行為に抵触しては為りませんので、施術は行わず、「子授け整体の指導」のみをさせて戴いて居ります。
それに、指導をさせて戴いても、首尾よく妊娠・出産に至れる方は半数程で、大きな期待を抱いて尋ねて来られる方を失望させて仕舞う事が多く、安易に依頼を受けない様にして居ります。
それでも、依頼された御夫婦が、妊娠・出産をされました時は、自分が子供を授かった様な喜びを感じますし、人から変人扱いされながらも、こうした活動を続けて来た甲斐が有ったと、しみじみ感じるのでした。
こうした私の活動など、精々、年に十人足らずの子供を世に生み出す程度ですし、若しかしたら、私が関わらずとも、自然に産まれていたかも知れませんので、微力ながらも少子高齢化に貢献して居るとも言えません。
世の中を大きく変える力は、「民意」ですが、それを行うのは政治であり行政です。
明治時代初期(1870年頃)、日本の人口は、約3千500万人でしたが、終戦の年である昭和20年(1945年)には、約7千200万人で、ほぼ倍増して居ます。
これは、明治政府が行った、富国強兵政策の賜物であり、戦前の政府が行って居た事は全て「悪」とする考え方の方が在りますが、見習うべき処は多いと思います。
しかし、逆に言えば、国の最重要課題として掲げ、国力を掛けても、人口が倍増する為には、75年を要したとも言えます。
農作物の生産量を上げるのとは訳が違います。
単純に、人が産まれてから結婚年齢に達するのを25年として一代とすると、三代を要する訳です。
強い意志と支持を得ない、5年、10年の目先の計画や、その場凌ぎの対策では、到底、人口の増加など叶うとは思えません。
小泉進次郎氏が、何ら現実的な具体案を持たない「アベノミクス」の少子化対策について、異論を唱えたのも、御尤もだと思いました。
今日は、料理請負人としての仕事は休みで、午前中、「子授け整体の指導」をさせて戴いて居ります御夫婦の家へ出向き、指導をさせて戴きました。
先月まで、二組の御夫婦の指導をさせて戴いて居りましたが、目出度く妊娠されまして、本来なら、無事に出産するまで指導するべきなのですが、不測の事態に成った時、責任を問われても責任が持てませんので、妊娠が確定した時点で、産科の主治医に委ねる事にして居ります。
今、「子授け整体の指導」をさせて戴いて居ります御夫婦は、指導を始めてから2ヶ月目に入ったばかりですが、以前、私が、「子授け整体の指導」をさせて戴いて居りまして、首尾良く出産された御夫婦から紹介された方で、「自分達も…」との思いが強く、話を伺って居りますと、期待の大きさが伝わって来て、流石の私も胸が痛くなる程です。
期待にこたえられるか否かは、「神のみぞ知る」としか申せませんが、いつもの事ですが、どの御夫婦にも、望みが叶って子供が授かる様にと願って止みません。
今日の名言・金言・・・「失敗しても怒られても、仕事に一生懸命な人が好きです…堀北 真希」・ ・ ・ アジアの片隅より
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シリア難民に纏わる私の世迷言・・・最終回
http://kishouhaji.exblog.jp/22361856/
2015-10-02T12:00:00+09:00
2015-10-20T02:17:51+09:00
2015-10-19T23:47:12+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
劉備 此方より寸借
諸葛亮 此方より寸借
「15歳の時、縁在って、故人である、三満正義先生に師事し、 三元派北斗流推命術と申します、支那伝来の占術を習い、師の没後、此れを継承し、ライフワークとして研鑽に励んで居ります。」と、ブログのプロフィールに書いて居りますが、こうした経緯から、早くから四書五経 を熟読し、支那(中国)の歴史書や漢詩を読み漁って居りました。
二人とも、支那(中国)の歴史書として日本で最も知られて居ります、「三国志演義」 の主要な登場人物ですが、三国志演義の中では、劉備は、義に厚く民を思いやる理想的な君主として・・・諸葛亮は、礼を重んじる情の厚い理想的な丞相 として描かれて居ります。
三国志演義では、二人の人物像は、かなり創作され誇張されては居りますが、様々な文献から史実をもとに考えましても、概ね間違いでは無い様です。
1800年前、戦乱に明け暮れた支那の国で、一時代を築いた、この二人の英傑こそが、現代に生きる日本人にとって、最も知られ、最も愛されている支那人で在る事に、異を唱える人は居ないと思います。
私等の様な、年配の者は、三国志演義を愛読し、もう少し若い方達はテレビで人気だった人形劇などを通して、若い方達は、マンガやゲームなどを通じて、その人気と認知度は群を抜いていると思います。
「占」をライフワークとして居る私は、少年期から諸葛亮に憧れ、「我が子、劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。だが、もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」との劉備の遺言(我が子が無能なら、殺してでも君が王位につけ)を、情に流されて、無能な劉備の子、劉禅 を後継者とし、蜀漢 を滅ぼして仕舞う結果を招きました。
そんな人としての弱さも、私が諸葛亮を慕う所以です。
ちなみに、支那(中国)では、未だに無能な人間の事を、劉禅 に例えるそうです。
汚職追放キャンペーンを繰り広げる習近平 此方から寸借
習近平と言うと、「虎もハエも叩く」と公言して、不正撲滅キャンペーンを展開して、地方の役人から、党中央の幹部に至るまで摘発し、賄賂と汚職に塗れた政府の浄化に勤めている、聖人君子を演じてはいます。
しかし、実態は、「不正摘発」の名の下に、自らの政敵を失脚させて、権力を一手に掌握し、あらゆる利権を手に入れ、自らの傘下を擁護しながら莫大な富を手に入れている、悪の枢軸に他成りません。
汚職や賄賂、暗殺や粛清は、古来から支那(中国)の伝統文化なのかも知れません。
1800年後の支那(中国)のトップである習近平は、劉備や諸葛亮の様な聖人君子では無く、残虐な暴君で、何の益も残さなかった董卓 に例えるのが最も適切だと思います。
これが、支那(中国)の国民の、延いては世界中の人々の不幸に繋がって居るとさえ考えています。
私が考える、世界一の金持ちは、ビル・ゲイツでも、アラブの王族でも無く、習近平です。
恐怖政治 粛清を繰り返す習近平 此方より寸借
習近平は、政敵を失脚させる事に成功し、多くの政敵を粛清しましたが、此れについては、詳しく書かれているサイトが在りましたので、そちらを御読みください。
粛清の経緯と背景・・・此処をクリック 此処をクリック
証券取引所への上場を果たしたアリババの馬雲会長 此方より寸借
目覚ましい経済発展を遂げた支那(中国)の国力は、最早、アメリカを凌駕していると言っても過言では在りません。
近年、その軍事力も増大の一途を辿って居ます。
夢物語の「共産主義体制」から目覚めて、「支那的な資本主義」に移行した結果ですが、其処から生じた貧富の差は、日本人の感覚を越え、「王と奴隷」以上の差が在ります。
貧しい者は大きな不満と怒りを抱き、それを抑え込むために法律を作り、組織を編成し、厳しく取り締まり、弾圧し、その結果、より大きな不満と怒りを生んで居ます。
嘘の歴史を作り、事実を捻じ曲げ、巧妙な工作を駆使して、その不満と怒りの矛先を、我が国・日本や、ウイグル族やチベット族や少数民族に向けようとして居ます。
富める者は、自らの地位や財産を増やし守る為に、権力者に賄賂を贈り、権力者は当然の様に受け取り、富める者は更に富み、権力者は更に強い権力を得て行きます。
枯渇する資源や食糧を得る為に、隣国の領土や資源を奪い、自分勝手な理屈を並べ立てて、自らの正当性を主張します。
貧富の差・隣国との軋轢・民族問題・環境汚染・経済の衰退・一人っ子政策から生じた戸籍を持たない子供達…etc・・・支那(中国)の国の諸問題を挙げればキリが在りませんし、ありとあらゆる矛盾とジレンマが渦巻いているのでした。
その元凶が、習近平を国家主席とする中国共産党であり、自国に渦巻く諸問題と矛盾とジレンマを、誰よりも知って居るからこそ、内へも外へも、過剰とも思える教鞭な姿勢を執らざるを得ないのです・・・弱めれば、遣り返される事も能く分かって居るからです。
天安門事件 当時の天安門広場 此方より寸借
支那(中国)の歴史を顧みても、否、世界の歴史を顧みて、この様な悪政や極悪国家が、長続きした試は在りません。
既に陰りや綻びは露呈している様に思います。
若し、支那(中国)の経済が衰退し、破綻し崩壊したとしたら・・・。
若し、虐げられていた支那(中国)の貧民が、一斉に蜂起したとしたら・・・。
若し、虐げられていた支那(中国)の民族達が、一斉に蜂起したとしたら・・・。
若し、領土問題で衝突して居る東南アジアの隣国と、戦争状態に成ったら・・・。
若し、それらが複合的に、同時に発生して、内戦状態と成り、シリアの様に成ったとしたら・・・。
勿論、そうなれば世界中の経済は、大混乱をきたすでしょう。
勿論、そうなれば、日本も、大打撃を受けるでしょう・・・しかし、私は、その事には、それ程の脅威は感じて居りません。
それは、日本の国と日本人が、これまでにも、如何なる困難にも耐えて克服し、現在に至り、私は、その日本人の底力を信じて居るからです。
しかし、若し、支那(中国)がシリアの様に成り、大量の難民が発生したとしたら・・・この様な事態は、有史以来、起きて居りませんので、どの様な事態に成るか、予想は出来ません。
9月29日の記事「シリア難民に纏わる私の世迷言・・・其の4 」 で申しました、「私が恐怖を感じる最悪のシナリオ」とは、実は、この事なのでした。
シリア難民は、400万人とも、600万人とも言われて居りますが、シリア の人口は、およそ2200万人と言われて居りますので、人口の約4分の1が難民と成って居ると言う事に成ります。
【世界人口白書・2014年】 によれば、支那(中国)の人口は、13億6782万人・・・単純に考えて、その1割が、海を越えて日本に入って来たとしたら、日本の人口を越えて仕舞うのです。
「そんな事は在り得ない」と考える方が殆んどでしょう。
しかし、最悪の事態が発生してからでは遅いのです。
日本海や東支那海を挟んだ隣国です・・・上海から長崎までの距離は、約800㎞程、20ノットの舟ならば、1日程で到達しますし、朝鮮半島を経由して来れば、数時間で到達できます。
北朝鮮領内を経由して、日本海を越えるのは、更に容易です。
遠方のシリアの難民で在れば、其れなりの理由付けをして拒否する事も、国際社会も容認して呉れるでしょうが、隣国である支那(中国)からの難民を、同様に受け入れない事を容認して呉れるとは考え難いのです。
その時、日本政府や、我々日本国民は、どの様な対応をするのでしょうか?・・・どのように対応すべきでしょうか?
3年前、尖閣諸島の国有化に端を発した中国での反日デモにより、日系企業が相次いで襲われた際、日系の百貨店が襲われて、10億円にも及ぶ商品が略奪された事 を憶えて居られるでしょうか?
その時に、略奪を行ったのは、中国マフィアでも強盗団でも無く、混乱に乗じて豹変した一般市民なのでした。
支那(中国)では、暴動や災害が発生する度に、こうした一般市民による略奪が平然と行われる様です。
全ての支那人が、そうとは言いませんが、遣って来る支那難民の中には、そうした悪しき輩も少なからず混じって居る事は間違い在りませんし、蛇頭 などの凶悪な犯罪集団のメンバーも含まれて居るに違い在りません。
日本に遣って来る支那難民の数を、支那(中国)の人口の100分の1として考えても、1000万人を越える難民を受け入れる事など、到底、可能とは思えません。
世界中を探しても、そんな国は無いと思います。
しかし、その様な状況に成れば、世界中から求められると思います。
大量の難民が押し寄せ、失業者が溢れ、食料が枯渇し、犯罪が多発して、日本の安全と秩序が崩壊し、日本の国家が滅ぼされる。
これこそが、「私が恐怖を感じる最悪のシナリオ」です。
デモや集会に参加して、「安保反対」「反戦平和」と連呼し、ヒーローにでも成った様なドヤ顔で、インタビューに答える若者は、1000万人を越える支那難民が遣って来た時、「ようこそ日本へ」と、笑顔で迎える事が出来るのでしょうか?
最初は可能かも知れません・・・しかし、支那難民に由って自分が職を失ったとしたら・・・支那難民に由って自分の財産が略奪されたとしたら・・・支那難民に由って自分の両親が惨殺されたとしたら・・・支那難民に由って自分の妻や恋人や姉妹が強姦されたとしたら・・・支那難民に由って日本の国が乗っ取られ、自分自身がが、ウイグル族や少数民族の様に、奴隷の如く扱われたとしたら・・・それでも、支那難民を許せるでしょうか?
国の安全保障とは、そうした事柄への危機管理も含まれて居るのです。
勿論、日本政府も、広い意味での危機管理に対する意識を高め、様々な状況に対応しうる体制を強化して行く必要が在ります。
国の実権を握り、権勢を誇った董卓も、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子の呂布 に殺されましたが、聖人君子であった劉備と諸葛亮が建国した蜀漢 も、善で在ったが故に滅ぼされて仕舞いました。
私も、戦争に成って欲しくは在りません。
恐らく、その思いは、あの青年達よりも強いと思って居ます。
日本が戦争に巻き込まれる事にも、加担する事にも反対です。
「反核・平和」を、念仏を唱える様に、誰彼無く語って居ます。
責任の無い立場から、何にでも「反対」と唱える事は容易い事です。
しかし、責任ある立場に在って、現実を直視し、周りの情勢を正確に判断し、対応して行く事は、極めて難しい事で在ると思います。
支那(中国)は、軍事力を強化し、我が国の領土を自国の領土だと主張し、不法に海底資源を調査掘削して奪い、我が国の領空を侵犯し、支那の業者が日本の海域で密漁しても見て見ぬ振り、我が国の巡視艇に舟を体当たりさせて損害を与えた漁船の船長を英雄扱いです。
最も許せないのは、「南京大虐殺」の様に、在りもしない事件をでっち上げ、史実を自分達の都合の好い様に湾曲し、世界中に其れを吹聴して、日本を貶めて居る事であり、それを真に受けて支那の為に活動して居る日本人の政治家やマスコミが少なからず居る事です。
「安保反対」や「基地建設反対」のデモや集会には、少なからず、支那(中国)や南北朝鮮の政府の指示を受けた活動家が混ざって居り、日本が、支那(中国)や南北朝鮮の政府の都合の悪い方向へ進まない様に、活動して居ます。
それを知りながら、「安保反対」や「基地建設反対」を叫んで居るのであれば、彼らは「売国奴」と呼べるでしょうし、気付いて居ないとすれば、「無能な烏合の衆」です。
「お前は右翼か⁉」と、よく言われます。
日本では、支那(中国)や南北朝鮮やロシアについて、真実を語ると、「右翼」と決め付けられますが、これも、支那(中国)や南北朝鮮やロシアのプロパガンダ の影響が浸透しているからかも知れません・・・恐るべき事です。
「9月30日に、チワン族自治区で起きた連続爆発事件の容疑者として特定されていた男が、爆発現場で死亡していた事を捜査当局が確認した」 と言う報道をテレビで観ながら、 『そがぃな事が、在る訳ゃぁ無かろぉが…嘘ばっかり言やぁがって・・・コメンテーターも詰らん奴じゃのぉ…「こんな大規模な事件が一人では不可能ですし、こんな報道は信じ難いですねぇ」ぐらい言えんのんかいのぉ…アンタぁ支那の回し者かぁ?』と、訝しく思って居りました。・ ・ ・ アジアの片隅より
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シリア難民に纏わる私の世迷言・・・其の5
http://kishouhaji.exblog.jp/22361846/
2015-10-01T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:44:54+09:00
2015-10-19T23:44:54+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
邦人逮捕を発表する洪磊・副報道局長 此方から寸借
昨日(9月30日)中国外務省の洪磊・副報道局長は記者会見で、中国でスパイ活動に従事した疑いで、「日本国籍の2人を逮捕した」と明らかにしました。
産経ニュース・・・関連記事は此処をクリック
TBS NEWS・・・関連記事は此処をクリック
中国は、昨年も国家安全法を改正し、反スパイ法を成立させるなど、取り締まりを強化しており、日本人に限らず、容疑を掛けられて拘束される外国人が急増して居ます。
広西チワン族自治区の事件現場 此方から寸借
9月30日に連続爆発が起きた中国南部の広西チワン族自治区柳州市柳城県で、10月1日午前8時(日本時間午前9時)ごろ、再び爆発が起き、6階建ての建物の一部が壊れる被害が出ました。
公安当局は、テロ行為の可能性はないと完全に否定し、9月30日の連続爆発事件を、柳城県の33歳の男の怨恨に寄る犯行とし、指名手配したと発表しましたが、情報は錯綜して居り定かでは在りません。
中央政府の教鞭な情報統制がしかれている模様で、事件の性質から考えると、余りにも早い容疑者の特定は、返って信憑性に欠けますし、中央政府の都合の良い結果としてしか報道されないのではないかと考えて居ます。
東京新聞・・・関連記事は此処をクリック
FNNニュース・・・関連記事は此処をクリック
爆弾テロの在ったウルムチの市(昨年5月) 此方より寸借
今回の爆弾事件が、テロで在るか否かについては、不明ですが、昨年、中国では、新疆ウイグル自治区 を中心に、中央政府への不満を抱くウイグル族 の過激派によるとされる、爆弾テロが繰り返されました。
反政府デモやテロの報道が、日本のメディアで頻繁に報じられて居りました。
反政府デモやテロが無く成ったのかと言うと、そうでも無いらしく、ネットを詳細に検索致しますと、大量の死傷者を出す様な事件は発生して居ないモノの、反政府デモやテロ事件は、頻繁に発生している様です。
政府の情報統制の体制が、極めて強固に成った為に、中央政府に都合の悪い情報が洩れて来なくなっただけの様です。
雪に覆われたウルムチ市内 此方から寸借
この事は、日本では殆ど報道されませんが、習近平政権の過酷な弾圧から逃れる為、中国新疆ウイグル自治区から脱出、亡命を図るウイグル族が増えている様です。
「ウイグル難民」
と呼ばれる人達です。
産経ニュース(2015.2.17) ・・・関連記事は此処をクリック
隣国に逃れたウイグル族は、劣悪な環境に身を置きながらも、中国に送還される事を恐れてウイグル族である事を隠したり、東南アジアの農園で強制労働をさせられていた例や、人身売買の対象とされて居た例もあり、悲惨としか言いようが在りません。
習近平政権は、ウイグル族が過激組織 ISIS(イスラム国)とつながっているとし、「テロ対策」を強調し、自治区を脱出するウイグル族を「テロリスト」と決めつけて厳しく取り締まっており、ウイグル族らを不法出国させようとした疑いで上海司法当局が、昨年11月、トルコ人10人を逮捕、ウイグル人9人を拘束したという報道もあります。
「国家テロ」を正当化するためのプロパガンダだという指摘もされていて、「イスラム国を最も悪用しているのは中国だ」と言う指摘もされています。
オバマ米大統領と中国の習近平国家主席 此方より寸借
9月25日、オバマ米大統領と、訪米中の中国の習近平国家主席は、ホワイトハウスで会談し、終了後の共同記者会見で、オバマ米大統領は、アジア太平洋地域の安全保障問題として東・南シナ海情勢に言及し、中国による人工島建設に「強い懸念」
を伝えたことを明らかにしまた。
これに対し、習近平は、「南シナ海は古来中国の領土だ」と発言し、人工島建設は「合法的な主権の範囲」とする主張を繰り返すなど、会談で議論が平行線をたどった事を示し、両国の利害や考え方に、大きな隔たりが在る事を露呈する結果と成りました。
国連総会で演説する安倍総理大臣 此方から寸借
国連総会 に出席する為、ニューヨークを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の30日未明、国連総会での一般討論演説で、シリアとイラクの難民・国内避難民に向けた支援を拡充し、ことしは去年の実績の3倍に当たるおよそ8億1000万ドル(日本円にして972億円)の支援を行う考えを表明しました。
NHK NEWS WEB・・・関連記事は此処をクリック
NewSphere・・・詳細は此処をクリック
安倍首相は、国連総会での一般討論演説を終えた後の記者会見で、資金面での援助のほかに「日本が難民を受け入れるという可能性についてはどう考えるか」という記者からの質問に答え、この質問は「アベノミクス2.0」、「新3本の矢」についての質問と同時になされたもので、首相はまずそちらに回答した後、
「そして今回の難民に対する対応の問題であります。これはまさに国際社会で連携して取り組まなければならない課題であろうと思います。人口問題として申し上げれば、我々は移民を受け入れる前に、女性の活躍であり、高齢者の活躍であり、出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります。同時に、この難民の問題においては、日本は日本としての責任を果たしていきたいと考えております。それはまさに難民を生み出す土壌そのものを変えていくために、日本としては貢献をしていきたいと考えております」と、語りました。
要約すれば、「日本は、国内の諸問題を解決して行き、国内の体制を立て直す中で、日本として出来うる限りの貢献を果たす」と、言う事でしょうが、各国メディアの反応は様々ですが、一定評価をされながらも、「金は出すが難民は受け入れない」との見方をされて居る事は否めません。
日本政府としては、枯渇する労働力を、難民に頼るのではなく、「外国人研修制度」 を拡充する事で対応しようとして居る様で、「労働力は欲しいが定住は困る」あと言うのが本音の様です。
9月27日の記事 で、「私がイメージする難民」として取り上げた「インドシナ難民」ですが、日本政府は、多い年では、1,000人を越える数 を受け入れて居りました。
私が、難民というと、インドシナ難民をイメージするのには大きな理由が有りまして、当時(1970年代後半から80年代)、頻繁に報道されて居た事も在りますが、学生時代のアルバイト先であった、ドライブインでアルバイトの先輩だった、ベトナムから来た難民、チャン・ソアイさんとの出会いが大きいと思います。
彼は、両親や兄弟と共に、内戦の混乱から逃れるためにボートピープルとなり、旅の途中で父と兄を亡くす中で、赤十字に保護されて日本に辿り着きました。
奨学金を受けつつ苦学して京都大学に通い、勤勉で礼儀正しく、思い遣りの在る方でした。
彼は、日本人や日本の政府に対して、心から感謝されて居り、「私の国が平和を取り戻したら、人々の為に成る仕事をしたい」と、いつも話して居り、卒業後は、大阪の貿易関係の会社に就職されましたが、90年代の始め、ベトナムと中国の関係が改善した頃に、家族と共に帰国されました。
私は、ソアイさんを尊敬して居りましたし、ソアイさんの様な方が居れば、日本とべてナムは、きっと友好国に成れると思って居りました。
日本政府が、カンボジア難民を受け入れた頃とは、世界情勢や時代背景が違いますし、当時の日本は、バブル景気の真っ只中で、良くも悪くも、経済的に最も余力の在る時期でした。
シリア難民とカンボジア難民では、経緯や事情や背景が異なり、一様に語る事は出来ません。
日本の難民認定の基準は極めて厳しく、難民を排斥する為の基準の様にも思えますが、「日本の国民を守る」と言う、最も重要な国の役割からすれば、致し方の無い様にも思えます。
明日、料理サークルの講師として招かれている私は、料理サークルで明日作る予定にしている、ソアイさんから教えて貰った、ベトナムを代表するスイーツ である「チェ」 に入れる為のタピオカを湯掻きながら、東南アジアの難民収容所で困窮している、難民の方々の無事を願って居りました。・ ・ ・ アジアの片隅より
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シリア難民に纏わる私の世迷言・・・其の4
http://kishouhaji.exblog.jp/22361833/
2015-09-30T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:40:52+09:00
2015-10-19T23:40:52+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
クリーンディーゼルエンジン SKYACTIV-D 搭載車 MAZDA アテンザ 此方より寸借
好調なドイツの経済を、フォルクスワーゲンが支えていたとするならば、私の住む広島の経済を支えているのは、MAZDA です。
トヨタ・日産・ホンダに次いで、国内第4位の自動車メーカーとは言え、広島に於いては、本社や子会社、及び関連企業を含めると、正確な数値は定かでは在りませんが、従業員や家族を合わせただけでも人口比率の2ケタを超えるのは間違いないでしょう。
御主人の行きつけの居酒屋や、奥さんが買い物に行くスーパー等まで考えるならば、経済的にマツダと全く関わりを持たない者は居ないと言っても過言では在りません。
居酒屋やスナックなども含めた、広島の飲食関係の売り上げは、マツダとカープの活躍に大きく左右されて居り、マツダはカープ のオーナー会社(厳密に言えばマツダの創業者一族がカープのオーナーです) でも在ります。
Jリーグのサンフィレッチェ広島 も、マツダの前身である、東洋工業株式会社のサッカー部を前身として発展して来たのでした。
マツダ が倒産したとしたら、私の様な者さえ、職を失いかねません。
マツダは、リーマンショック 以降、落ち込んだ業績を徐々に回復し、昨年度は、過去最高の営業収益を計上しました。
その大きな要員と成ったのが、マツダが開発した、クリーンディーゼルエンジン SKYACTIV-D で、ヨーロッパを中心に売り上げを伸ばし、オーストラリアに於いて は、トヨタ・ヒュンダイに次いで第3位でした。(三菱5位・日産8位・スバル9位・ホンダ10位)
証券会社で株価を見つめる中国の個人投資家 此方より寸借
昨日(9月29日)、東京株式市場で、日経平均株価は大幅に続落 し、1月16日以来、節目の1万7000円を割り込み、前日比714円27銭(4.05%)安の1万6930円84銭で終えました。
日本経済新聞・・・関連記事は此処をクリック
主な要因は、中国経済の低迷と、此れを不安視した世界的な株安によるものですが、シリアの難民問題や、ディーゼルゲート事件(フォルクスワーゲンの不正発覚)による産業界への影響を懸念し、市場が反応した模様です。
特に、マツダの下落幅は大きく、フォルクスワーゲンの不正発覚によるディーゼルエンジンへの不信感の増大をマーケットが懸念し、影響をより大きく受けて仕舞った様です。
産経ニュース・・・関連記事は此処をクリック
実は、この、中国経済の低迷と、中国に内在して居る様々な問題や矛盾が、難民問題への懸念と絡んで、「私が恐怖を感じる最悪のシナリオ」へと繋がって居るのでした。
あらゆる情報がリアルタイムで伝わり、経済がグローバル化して仕舞った現代では、地球の反対側で起こった些細な出来事でも、国家や個人の命運に大きな影響を及ぼして仕舞う危険を孕んで居ます。
それ故に、シリア難民の問題を、「海の向こうの出来事」とは考えず、大きな懸念を抱いて居りました。
それに加えての今回の「ディーゼルゲート事件」です。
マツダにとっては、今回のフォルクスワーゲンの大不祥事は、本当に迷惑な話であり、今後の悪影響は計り知れません。
恐らく、マツダの関係者の皆さんは、フォルクスワーゲンの事を、さぞ苦々しく思って居られる事でしょう。
私の身近にも、「シリア難民」や「ディーゼルゲート事件」の影響が、徐々に迫って来ているのかも知れません。
5回表、勝ち越しの2ランを放ったエルドレッド選手 此方らから寸借
昨夜、カープは、リーグ優勝のマジックを1としているスワローズと敵地で対戦し、1点を追う五回に丸選手のソロ、エルドレッド選手の2ランと一発攻勢で逆転し、最終回のピンチを中崎投手がWプレイで打ち取って勝利を掴みました。
3位のタイガースを1,5ゲーム差で追い、負けられない戦いの中での4連勝は、私を歓喜させました。
地上波での中継は9時で終わりますが、私は、スカイパーフェクトTV を契約して居りますので、最後までテレビ観戦して居りました。
『これが在るけぇ、金ぇ払ぉても、観にゃぁいけんよぉのぉ‼』と、思いながら、サヨナラ負けを喫した時などは、『何ぃ不細工な事ぉをしよりゃぁがんなら‼・・・儂ゃぁ何が悲しゅぅて、金ぇ払ぉてまで、こがぁな負け試合をテレビで観んにゃぁならんのんじゃろぉ‼』と、思って居る、げんきんな自分を思い出して居りました。
後からスポーツニュースを観て居りましたら、ベイスターズが、昨夜、甲子園球場で行われたタイガースとの最終戦で、9回裏に、三上投手が暴投をしてサヨナラ負けをした様子を見ましたので、
「わりゃぁ‼…何ぃ詰まらん事ぉをしよりゃぁがんなら‼…カープと遣る時ゃぁ必死こいて勝ちゃぁがって…わりゃぁ、わざっと負けよりゃぁがるんかぁ‼…カープに恨みでも在るんかと‼」と、思わず声量を抑えながら罵倒して仕舞いました。
独りの部屋で、不甲斐無いベイスターズとフォルクスワーゲンを重ね合わせて、『カープもマツダも、なかなか辛いのぉ・・・。』と、思いながら、あれこれと思いを巡らし、秋の夜長を過ごして居りました。・ ・ ・ アジアの片隅より
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シリア難民に纏わる私の世迷言・・・其の3
http://kishouhaji.exblog.jp/22361820/
2015-09-29T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:37:59+09:00
2015-10-19T23:37:59+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
辞任を表明した ウィンター ・コルン CEO 此方より寸借
9月18日、米環境保護局(EPA) はVWと傘下のアウディの一部ディーゼルエンジン搭載車が、排ガス規制に関する試験をクリアするために違法ソフトウエアを用いていたと発表しました。
産経デジタル・・・詳細記事は此処をクリック
朝日新聞デジタル・・・詳細記事は此処をクリック
此れを受けてフォルクスワーゲンの株価は急落し、米メディアによると、調査結果次第では、米当局から最大で180億ドル(約2兆1600億円)の制裁金が科される可能性があるとして居ます。
9月23日、ウィンターコルン最高経営責任者(CEO)は、責任をとり辞任しました。
新CEOマティアス・ミュラー氏(左から2人目)此方より寸借
9月25日、新しい最高経営責任者(CEO)に就いたマティアス・ミュラー 氏は、記者会見で、「かつて経験したことのない挑戦が立ちはだかるなかで、(トップを)受けることにした。組織改革を急ぎ信頼回復につとめる」と語りました。
フォルクスワーゲンは、好景気に沸く中国市場での好調な売り上げを背景にして、世界のトップに躍り出る勢いで、ドイツの好景気を牽引する存在であり、今回の不正発覚の報をうけたドイツの政財界の衝撃は計り知れず、EUの先頭に立って全体を纏めてきたドイツの失墜は、EUだけで無く、世界経済に大きな打撃となる事は避けられそうに在りません。
「ギリシャ危機を超える打撃となる」との見方をする経済学者も在り、日本の自動車産業も、ライバルの失墜を、手を叩いて喜んで居れる状況では無い様です。
9月15日 共同記者会見に臨んだドイツのメルケル首相(右)とオーストリアのファイマン首相 此方より寸借
EUのリーダー的な存在で在る、ドイツのメルケル首相の提言に由り、9月22日にブリュッセルで開かれた、臨時の内相理事会では、欧州に難民や移民が多数流入する問題をめぐり、難民ら12万人の受け入れを各国で分担する措置を賛成多数で決定しました。
しかし、EUの臨時内相理事会を提言した9月15日には、フォルクスワーゲンの不正は発覚して居らず、難民問題を取り巻く環境は大きく変わる様相を見せて居ます。
メルケル首相の支持率は、今年に入って徐々に下がって来ており、ディーゼルゲート事件 と呼ばれている今回のフォルクスワーゲンの大失態は、此れに拍車をかける可能性が高いのでした。
多くの難民を受け入れ、「善意の国ドイツ」を全世界に向けてアピールしたかったメルケル首相の方針は、大きく方向転換をしなければ成らないかも知れません。
「質実剛健」を旨とし、自国の「技術力の高さ」に誇りを持ち、「清廉潔白な騎士道精神」を重んじるドイツ国民が、その象徴とさえ考えて居たフォルクスワーゲンの大失態は、ドイツ人のプライドを傷付け、怒りを超えて大きな失望感に苛まれて居るのではないかと感じて居ります。
ある意味、この、自信と誇りの喪失の方が、「シリア難民の問題」よりも、「ディーゼルゲート事件」よりも、ドイツにとっては大きな痛手に繋がるかも知れません。
反移民活動を行うネオナチ政党(ドイツ国家民主党) 此方より寸借
EU諸国では、近年、極右政党が台頭し、着々と勢力を伸ばして来て居ます。
日経ビジネス ・・・関連記事は此処をクリック
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極右政党は、民族主義 を旨とし、民族を政策の中心に据えて居ます。
それ故に、移民の流入には異を唱え、EUに対しても否定的な考え方を持って居ます。
私は、EU諸国で、近年、極右政党が台頭し、勢力を伸ばしている事自体に、それ程の危機感は抱いて居りませんし、或る程度は、右傾化した考えを持つ人々が居る事も、世の中の秩序を保つ事に繋がると考えて居ます。
様々な立場や考えの人間が、色々な意見を戦わせ、議論し合い、程好い場所で折り合いながら道を選択し方向を定めて行く所が、民主主義の最大の長所であると考えて居るからでした。
しかし、今回の様に、大量の難民が一気に流入し、それが要因と成ってEU諸国の経済が混乱して仕舞えば、必ず極右政党が支持され、過剰に力を付けて均衡が崩れます。
ギリシャ危機 に因って経済的な重荷を背負って居るEU諸国ですから、これ以上の難民を受け入れる余力は無いと思います。
「EUのシリア難民危機」と呼んでも良いかも知れません。
今回の「シリアの難民」の問題で、私が最も危惧して居たのは、この状況に他成りません。
更にタイミング悪く、好調な経済状況を背景に、ギリシャ危機を回避する為に、先頭に立って突き進んで居たドイツの経済が、ディーゼルゲート事件を機に失速して仕舞ったら・・・。
これは突発的な出来事で、誰も予測出来なかった状況です。
それだけに対応が難しく、窮状を乗り切るのは極めて困難な事だと思います。
最早、日本の国家も、日本の民衆も、海の向こう側の、無関係な出来事だと、傍観して居られる状況ではなく成って居ます。・・・この事に気付いて戴きたいのです。
政策を誤れば、経済恐慌に繋がりかねない危険を孕んで居ます。
そうなれば、必ず極右勢力が、更なる支持を得て力を付け、EUは決裂して崩壊し、世界は負の時代に逆戻りします。
これが私が予測する、最悪のシナリオです。
自らのエゴの為に、更なる豊かさを求めて、「難民」であると偽り、荒廃する故国を捨て、困窮する人々を見捨て、海を渡り国境を越える輩は、こんな事は想像さえしないでしょうが・・・。
自分の事しか大切にせず、自分さえよければ、母国さえ捨てて仕舞う輩ですから、他国の国益を思い、慎ましく振舞う事など、望むべくも在りません。
こんなアジアの片隅で・・・チビで、デブで、ハゲの、50過ぎの愚者のオジサンが、こんな事を考えて居ます。・・・世迷言でしか在りませんが・・・。
こんな事が現実と成らない事を、心から願って居ります。・ ・ ・ アジアの片隅より
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シリア難民に纏わる私の世迷言・・・其の2
http://kishouhaji.exblog.jp/22361802/
2015-09-28T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:35:06+09:00
2015-10-19T23:35:06+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
南シリアのヤルムーク難民キャンプ 画像は此方より寸借
抑々、私達日本人は、シリアと言う国 について、どれだけの知識を持って居るだろう?
否、シリア難民の事が報じられる様に成る以前まで、どれだけの関心を持って居ただろう?
かく言う私も、以前は・・・そして最近まで、全くの無関心と呼べる状態でした。
親友の住む、イスタンブールを首都とする、親日国であるトルコの南側の隣国・・・中高生の頃の世界史の授業で、世界四大文明 を学ぶ際に、ほんの少し遺跡の名前 が登場する国名・・・中東情勢が報じられた際に、度々登場する国名としか知識は在りませんでした。
地球儀を示されて「シリアを指で指示してください?」と問われて、瞬時に指し示す事の出来る日本人は、100人の内、何人居るでしょうか?
こんなブログ記事を書いている今でさえ、ウィキペディア(Wikipedia)やネットで検索して得た程度の知識しか在りません。
以前のブログ記事、「外に向く目の死角」 や 「悲しい知らせ」 で、日本人ジャーナリストの湯川遥菜さんと後藤健二さんが、ISIL(アイシル) に誘拐された末に惨殺された事を記事に致しました。
以前、此れに関連した事柄を検索して居りました時にヒットし、流し読みしていた記事の事が、最近、シリア難民の事が頻繁に報じられる様になって、無性に気掛かりと成りましたので、うろ覚えの記憶を頼りに検索しましたら、すぐにヒットしました。
ピアノを弾くエイハム・アハマド 画像は此方より寸借
「ISにピアノを焼かれ、私はヨーロッパを目指した。シリア難民のピアノマンの日記」 です。
この記事を読んだ時、映画『戦場のピアニスト』 を思い起こしました。・・・とても気の毒に思いました。
しかし、彼は未だ幸いな人です。
彼の記事の中に、彼は密航業者に60万円を支払って、命辛々、運良く、望みが叶い、ヨーロッパの地に辿り着く事が出来たと在りました。
密航業者に大金をを支払って密航を図り、途中で警備隊などに拿捕されたり、乗って居たボートが転覆して命を失った者も少なくないのでした。
それどころか、密航業者に払う金も無く、シリアを脱出する余力も体力無く、シリア国内を逃げ惑って居る国内難民が、何百万人も居るのでした。
彼は将に、幸いな人なのです。
シリア北西部の町の市場 画像は此方より寸借
そうした国内難民には、国連や赤十字やNGOなどの救済の手も届き難く、正確な情報さえも、なかなか伝わって来ません。
私が本当に気掛かりなのは、逃げ出す術も無く、苦しみに喘いで居られるであろう、シリアの国内難民の方々の事なのでした。
幼い子供が飢えて痩せ細っている姿を想像しただけで、胸が痛み、何もしてあげられない自分の無力さと相俟って、思わず涙が滲んで参ります。
写真を寸借致しましたサイト【地球の旅人 東苑泰子の東遊西撮記】 を見る限りでは、同じシリア国内で在っても、紛争地域から離れた場所では、比較的、平穏な日常生活が営まれて居る様です。
こうした平穏な地域からも、難民として、移住を目的とする人々が紛れ込んで、ヨーロッパに流入して居るのでした。
大金を受け取り、密航を手引きして居る業者が暗躍して居る事も、大きな問題の一つです。
彼等の多くは、ISILと繋がりを持ち、ISILの資金源の一つに成って居ると言われて居ます。
そうして集めた資金により、ISILは戦闘を維持拡大し、更なる難民を産む・・・将に負の連鎖です。
シリアのピアノマン、エイハム・アハマドは、ドイツに辿り着けば難民として受け入れられるでしょう。
しかし、もし、彼が、我が国に難民申請をしたとしても、認定されるのは難しいと思います。
私は彼の事を、とても気の毒には思いますが、彼を難民と呼べるか否かについては、疑問を感じる処が多く、判断しかねます。
私は、料理請負人を生業として居ります。
日曜日や祝日には、結婚式場やホテルの結婚式の披露宴で出される懐石料理を作る為に、厨房に招かれる事も多いのです。
その折、驚くと共に、とても申し訳無く思う事が御座います。
食べ残して廃棄される量の多い事・・・出席者が数百名とも成りますと、その量は半端では在りません。
料理については、心を籠め、自信を持って提供させて頂いて居ります。
好き嫌いも在るでしょうし、アレルギーを御持ちの方も御座いましょうが、全ての来席者の方に、質・量ともに満足して戴ける様な設定にして居りますので、御婦人の方ですと、全てを食べ尽くすのは難しいかと思います。
また、場所柄、ガツガツと食べるのは人目が憚られるでしょうし、プライベートで割烹料理店や料亭に行かれるのとは異なり、時間の制限も御座います。
私個人としては、たべ切れなかった料理は、出来るだけ持ち帰って戴きたいと考えて居りますが、食中毒の関係で、テーブルに並べた料理を持ち帰る事は、原則、断る決まりに成って居ります。
昨日も、結婚式場の厨房に招かれて、披露宴にお出しする舟盛りを造って居りました。
披露宴が終わった後、下げて来られる食べ残しの料理が、ゴミ箱に捨てられて行く様子を視ながら「勿体無いのぉ・・・これだけの食べ物が在りゃぁ、何人の人を救えるじゃろぉか?」と、胸を痛めて居りました。・ ・ ・ アジアの片隅より
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シリア難民に纏わる私の世迷言・・・其の1
http://kishouhaji.exblog.jp/22361792/
2015-09-27T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:33:12+09:00
2015-10-19T23:33:12+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
シリア難民 画像は此方から寸借
今、テレビを点けてニュースを見ると、「安保の関連記事 」「米中首脳会談関連」 「シリア難民関連」 の記事に合わせて、国内で起こった様々な事柄が報じられて居ます。
私が最も関心を寄せ、思いを巡らしているのは、シリア から急激な勢いで流出し続けている「シリア難民」 と呼ばれる人達に纏わる思い・・・トレーラーの中で何十人もの人々が死んでいたと聞けば胸を痛め、濱に打ち上げられたと言う幼子の事を思えば身に摘まされ、国境で虐待を受ける映像を見ては恐怖を覚える・・・きっと誰もが、同じ様に感じるのかも知れません。
しかし、映像を見て居て、何かしら「違和感」を覚えるのでした。
何かが違って居る気がする・・・『何でじゃろぉ?』と考えた時、一つの事に気が付きました。
「難民」と呼ばれる人達への、私の中のイメージ・・・「シリア難民」は、私がイメージする「難民の姿」からは、程遠い存在なのでした。
ベトナム難民 画像は此方から寸借
私がイメージする「難民の姿」とは、ベトナムからの難民の姿でした。
ベトナムからの難民をはじめとする、インドシナ難民 とは、1975年 、ベトナム ・ラオス ・カンボジア (総称してインドシナ 三国)が社会主義 体制に移行したことにより、経済活動が制限されたり、同体制の下で迫害を受ける恐れがあったり、体制に馴染めない等の理由から自国外へ脱出し、難民となった人々の総称です。
難民の流出は1970年代後半から80年代を通して見られ、特にその一部はボート・ピープル として海外へと脱出した事で世界から注目されました。
当時の私は、中学生~大学生であり、反戦や反核と言った事柄について、深く考え、私なりの活動を行って居りました多感な時期で、その姿は、私に大きな衝撃を与えました。
地理・時代背景・国際情勢・国民性・難民と成った要因など、シリア難民とインドシナ難民とでは大きく異なり、一様に語る事は出来ません。
しかし、私が感じる「違和感」は、そうした違いから生じるモノでは無い様に思います。
ドイツに到着したシリア難民 画像は此方から寸借
テレビで報じられる映像や、ネットをはじめとする様々なメディアからの情報からしか感じ取る事は出来ませんので、私の偏った感じ方なのかも知れませんが、インドシナ難民からは、「悲壮感」しか感じませんでしたが、シリア難民からは、ある種の「余裕」さえ感じるのでした。
ヨルダンへと逃れるシリアの女性達 画像は此方から寸借
シリア難民の方々からしてみれば、「命辛々」なのかも知れませんし、メディア毎の報じられ方や見せる映像によって、受け手側の感じ方も変わるでしょうから、その所為も在るかも知れません。
10代の青年だった私が、50過ぎのオジサンへと、歳を経た所為も在るかも知れません。
しかし、映像を見て居て、何かしら「違和感」を覚えるのでした。
シリア難民を取材して居る日本人のスタッフが、大きな荷物を担いで歩いて行く青年にインタビューした時、
「ドイツへ行ったら、仕事を見付けて安定した生活をしたい・・・シリアには仕事が無いからね・・・。」と、青年の瞳は、希望に輝いている様に見えました。
私の目には、彼は「難民」には見えませんでした。
私の記憶に在る、「カンボジア難民」の瞳は、皆一様に消衰し切って絶望し、「死んだサバの眼」の様でした。
私の記憶の中に、インタビューに答えた青年と、同様の事を語り、同じ瞳の輝きをしていた日本人の青年が在りました。
それは、移民何十年だったかを記念した報道番組の、戦後間もない頃、ブラジルに移民する人々にインタビューしたアーカイブ映像の中の青年で、「家は百姓をしているが、末っ子の私には耕す土地も無い・・・他に仕事も無く生活出来ない・・・ブラジルに行ったら農場で働きます。」と、力強く語る彼の瞳は、希望に満ち溢れて居りました。
「そうか・・・難民では無く移民なんじゃ」と、思いました。
「この混乱に乗じて、より豊かな生活の場を求めて移民しようとしている者が居る」
それが違和感を感じさせる要因の様に思えました。
そうした輩は、極一部なのかも知れません。
しかし、数百万人にも及ぶ難民の中に、少なからず紛れ込んで居る事に間違いない様です。
難民と一緒に写真を撮るメルケル首相 画像は此方から寸借
多くのシリア難民は、ドイツを目指し、ドイツに定住する事を望んでいる様です。
それは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相が、難民を受け入れる事を逸早く表明し、実際に多くの難民を受け入れて手厚い保護をして居る。
シリア難民は、その情報を、手にしているスマートフォン等に由ってリアルタイムで入手して知って居るのでした。
命の危険を感じ、着の身着のままで廃船同様の小舟に溢れ零れそうな程の人々が乗り込み、明日の事も分からぬ儘、微かな噂話を頼りに「豊かな国アメリカ」を目指した、カンボジア難民とは明らかな違いが有るのでした。
ドイツが積極的に難民を受け入れるのには、大きな国内事情が在ります。
言わずと知れた事ですが、第二次世界大戦中、アドルフ・ヒトラー による独裁政治のもと、ユダヤ人を大量虐殺した為に「極悪な国」と言うレッテルを貼られたドイツは、戦後、負のイメージを払拭するする為に、積極的に国際貢献に参加し、多くの難民を受け入れて来ました。
そうした国の活動に対する、国民の支持も意識も、極めて高いのでした。
ある程度の好景気を維持しており、難民を受け入れて、比較的安い労働力としていると言う、経済的な事情もある様です。
EUは内相会議を開き、難民の受け入れ分担について協議しましたが、経済的に困窮しているハンガリー・スロバキア・ポーランド等の東ヨーロッパ諸国は、難民の受け入れに否定的で、イギリスも本音としては積極的では無く、各国毎の経済的な事情や宗教の問題など、複雑な事情が絡んで居り、一枚岩では在りません。
朝日新聞記事・・・
朝日新聞は、難民の受け入れに対して、慎重な姿勢をとっている日本政府に対して、批判する記事や報道を繰り返していますが、私は、日本政府の対応は、賢明な判断で在ると支持します。
その理由は・・・
☆抑々、難民の多くは、日本に来る事を望んで居ない。
☆宗教・言語・文化の違いが大きく、難民が来ても日本に住む事が、難民にとっても、日本人にとっても、互いの幸福に繋がるとは考え難く、国内に大きな混乱を招く結果に繋がりかねない。
☆日本の経済状況は、未だ回復したとは考え難く、難民に費やす余力が在るのであれば、震災や災害の復興費用や教育や福祉など、国内で困窮している日本人の為に使うのが先だと考える。
☆テロリストや犯罪を目的として入り込もうとする輩と、「難民」を区別する事は極めて難しく、治安の悪化を招き兼ねない。
他にも様々な理由が在りますが、日本は、諸外国やマスコミから「日本は難民の受け入れ数が極端に少ない」と批判を浴びようとも、安易に難民を受け入れず、受入れ国の支援や、外交努力によってシリアの内戦状態を収束させる等、日本として出来うる支援策を続けて行くべきだと考えて居ます。
日本国内には、「不足する労働力を補う為に、積極的に難民を受け入れて労働力とすべき」との安易な意見を仰る方も居られますが、この様な意見は、難民の人権を無視した、あたかも難民を使役する牛馬や奴隷の如く見下し、難民の方達を卑下した考え方であり、尋常とは思えません。
阿部首相は、先日行われた総裁記者会見 の中で、「第二の矢は、「夢」を紡ぐ「子育て支援」ターゲットは、希望出生率1.8の実現です。」と述べられましたが、10年・50年・100年先の日本の将来を見据えた政策を展開して行き、1・8から2・0へ、最終的には、合計特殊出生率 を1950年代の3・0程度まで引き上げる事に由って、人口を増加させ、移民や出稼ぎ労働者ばかりに頼ろうとせず、様々な諸問題を解決して行くべきだと考えて居ります。
その過程の中で、世界の恒久平和に貢献して行く事が、望ましい日本の在り方で在ると考えて居ります。
それにしても、伝えられて来る、難民の方々の窮状は、見るのも聞くのも忍び難く辛いです。
難民の方達が一日も早く、安寧な日々を迎えられます様に、心から祈念して居ります。・ ・ ・ アジアの片隅より
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心の師・・・宮澤賢治先生
http://kishouhaji.exblog.jp/22200913/
2015-09-21T20:12:00+09:00
2015-09-23T01:33:04+09:00
2015-09-21T20:12:54+09:00
ajianokatasumiyor
思った事
宮澤賢治 先生
今日、9月21日は、私の心の師である、宮澤賢治先生の命日です。
先生は、明治29年(1896年)8月27日生まれで、昭和8年(1933年)に亡くなられましたので、享年は37歳に成ります。
先生の作品との出会いで、一番古い記憶は、幼稚園に通って居た頃に、伯母に連れられて『セロ弾きのゴーシュ』の人形劇を観に連れて行って貰った事です。
その帰りに、伯母が先生の童話集を買って呉れたのですが、それは小学生の高学年向けの本であった為に、自分では読む事が出来ませんでしたので、私は間が在れば読んで呉れる様に伯母にせがみ、一つの話を読み終えるまで伯母にせがみ続けましたので、伯母を困らせて居りました。
未亡人であった伯母は、当時、私等家族と同居して居り、仕事で忙しい両親に代わって、幼い私等の面倒を看て呉れて居たのでした。
小学校に上がってからは、徐々に自分でも読める様に成りましたので、先生の童話作品の殆どを読み終えましたし、中学にあがると詩集や、先生に関連した書物も読み漁り、憧憬は更に深まり、目を閉じれば、先生が跋渉した岩手の野山を目の当たりにした様に思い浮かべる事が出来ましたし、思いを巡らせば、イーハトーブの野や山や川や街並みや、鳥や動物や働いて居る人々の姿や、そこを駆け回っている自分の姿さえ覗き見る事が出来ました。
以前の記事でも触れましたが、小学6年生の頃まで吃音症が酷かった私は、人と話をする事が苦手で、自然と人との付き合いも億劫になり、幼少の頃から習って居りました渋川一流柔術や柔道の練習などアクティブな面も在りましたが、幼少の頃から習って居りました絵画や、小学生に成って習い始めた書道や、独りで読書に勤しむ事の多い少年時代を過ごして居りましたので、宮沢賢治と言う存在は、「私」と言う人格を形成する中で、極めて大きな存在で在ったと思います。
大学に進学してからは、先生の墓参りをさせて戴いたり、生家や記念館を訪ねたり、先生の足跡を辿って岩手県の各地に何度も足を運びました。
今も、先生の書かれた本や、関連した書籍を拝読させて戴きますが、読めば読むほどに、知れば知るほどに、その深淵の深さと偉大さを感じるばかりで、「聖人」とは先生を現す唯一の言葉で在ると感じて居ります。
ヤドリギ
先生は、ヤドリギが好きだったそうです。
先生の作品の中にもヤドリギが度々登場しますし、ヤドリギに纏わる多くのエピソードも残って居ります。
その理由については存じませんが、栗や楢や桜などに寄生する常緑小低木であるヤドリギは、冬には枯れて仕舞った宿主の木の高い枝の上で、青々とした姿を冬の空に浮かび上がらせ、その姿は、我が国では古より、不老長寿に通ずる常緑信仰の対象とされて居りますし、西洋でも神聖な木とされて居ります。
そうした生命力の強さが、健康とは縁遠かった先生の心を魅了したのかも知れません。
毎年、先生の命日には、山にヤドリギを採りに行き、仏前に供え、先生も詠まれたであろう法華経の如来寿量品と観世音菩薩普門品(観音経)を唱んで冥福を祈念し、亡き師を偲んで居りました。
足を悪くしましてからは、高い木の上に在るヤドリギを採る事も叶いませんし、山へ登る事も儘成らなくなりました。
先生の命日の9月21日は、秋の彼岸と言う事も在り、おはぎを作って仏壇に供えて居りました。
しかし、今年は仕事の為に、廿日市市の大野町に泊り込みで来て居りまして、それも叶いません。
今朝方、目覚めました折に、東の空に向かって手を合わせ法華経を唱んで冥福を祈念致しました。
昭和8年に亡くなられた先生は、後に起こった凄惨な戦争の悲劇を見る事は在りませんでした。
しかし、それを予感為さって居られたのでしょうか、幾つかの作品の中に、戦争に対する思いを現されたモノも在りますし、羅須地人協会の活動に於いても軍国主義化を危惧されて居られた事が伺えます。
もし、もう少し長生きをされて居たら、どれ程、心を痛められたでしょうか。
世界がぜんたい 幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない
この言葉は、農民芸術概論綱要(1926年)の序論の中で語られた言葉です。
この言葉は、「雨ニモマケズ」と共に、私の指針と成って居ます。
今の日本の現状を観られたら、どの様に考え、どの様に語られるでしょうか。
先日、安全保障関連法が、参院本会議で自民・公明両党などの賛成多数で可決され成立しまた。
私は、戦争を望みませんし、原子力の平和利用についても、本音の部分では反対ですが、安全保障関連法については、基本の部分では賛成です。
現在の国際情勢、取り分け、日本を取り巻く、支那(中国)・韓国・北朝鮮・ロシアなどの近隣諸国の横暴な動きを見れば、代替案も提示せずに「安保反対」を唱えて悪戯に国会の会期を延ばして国税を浪費しながら、無力な醜態を晒した野党よりは、極めて現実的な選択で在ったと考えて居ます。
どの様に運用して行くか、或いは、戦争を回避する為に、如何なる国策を立てて実行し、如何なる外交を展開して行くかが重要なので在ると考えます。
マハトマ・ガンディーやキング牧師が行った非暴力主義は、国内における活動であり、国と国との命の取り合いである戦争に於いては、なめて掛かられ、滅びの道を歩むだけです。
以前の記事でも触れました、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が、越境して進行した最大の理由は、ソ連が、「日本には反撃する余力が無い」と判断し、「今遣らなければ損をする」と考えたからに他成りません。
その結果、どの様な悲惨な目にあわされたかを、戦後70年経った今こそ、思い起こし、伝えて行かなければ成らないと思います。
もっと言及すれば、アメリカが広島や長崎に原爆を投下出来た最大の理由も、「日本本土に原爆を使用しても、日本には、アメリカ本土に反撃する能力が無い」と言う事をよく分かって居たからです。
日本の国力を貶めようとしている、支那(中国)や韓国や北朝鮮の策略のもとに、「安保反対」のデモや抗議活動に混ざって活動して居る中国人や韓国人に搖動されて、「安保反対」を唱えている日本人の若者や主婦達に、その事を、もっと深く冷静に考えて欲しいのです。
私は、日本の若者が、本気で日本の将来を危惧して、「反対の声」を唱える事には、逆に喜ばしい事だと考えて居ります。
様々な立場や考えの人間が、色々な意見を戦わせ、議論し合い、程好い場所で折り合いながら道を選択し方向を定めて行く所が、民主主義の良い所なのですから・・・。
奇しくも、9月21日は、安倍晋三首相の誕生日でも在ります。
唱和29年(1954 年)生まれですから、61歳を迎えられたのだと思います。
私は、自民党や公明党の支持者では在りませんが、我が国の復興の為に、更なる尽力をなさる事を願って居ります。
また、余談が長く成って仕舞いました。
私が37歳に成ったのは、平成10年(1998年)の事でした。
漸く、先生と同じ歳に成れたと、感慨深いモノが在りました。
聖人である先生と比べるべくも無い人生ですが、一つだけ優って居る事が在ります。
2回の結婚で、娘を1人、息子を3人授かった事です。
残念ながら、最初の結婚では妻が早死にし、2回目の結婚では、価値観の違いから7年前に離婚致しましたが、どちらも素敵な女性でしたから、巡り会いに感謝して居ります。
今日も、ホテルで行われる結婚式の披露宴で出される、懐石料理や舟盛りの料理請負の仕事をさせて戴きましたが、若いカップルが、最後まで添い遂げられる事を願いながら、料理を作らせて戴いたのでした。
今日の名言・金言・・・『私達の国、日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ。 そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。 この可能性を引き出す事が出来るのは、私達の勇気と努力と英知だと思う。 日本人である事を卑下するより、誇りに思い、未来を切り開く為に汗を流すべきではないだろうか…安倍晋三』・ ・ ・ アジアの片隅より
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サブブログを始めました。
http://kishouhaji.exblog.jp/22361763/
2015-09-01T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:26:42+09:00
2015-10-19T23:26:42+09:00
ajianokatasumiyor
お知らせ
富士と桜 イメージ画像は此方より寸借
8月末の一連の記事 で紹介致しましたが、2015年 ( 平成27年 ) 9月1日より、「アジアの片隅より」 のサブブログとして、アジアの片隅より…Second を、正式に開設する事に致しました。
此方では、私のライフワークである、『占』(三元派北斗流推命術)と、『子授け整体』に関連した記事や、これらの立場から、世の中で見聞きし出会った事柄について語って参ります。
【エキサイトブログのプロフィールより】
現在は、料理請負人を生業とし、調理師免許・河豚調理師・日本料理専門調理師・日本料理専門技能士・職業訓練指導員(日本料理科) の資格を有し、広島市内を中心に、料亭・割烹・旅館・ホテル等から依頼を受けて、厨房に立たせて頂いて居ります。
15歳の時、縁在って、故人である、三満正義先生に師事し、三元派北斗流推命術と申します、支那伝来の占術を習い、師の没後、此れを継承し、ライフワークとして研鑽に励んで居ります。
柔道整復師の資格を有し、広島市内で接骨医院を開業し、子授け整体 ( 妊娠し易い身体造り ) を提唱し、不妊治療をされても結果を得られない御夫婦の、体質改善の施術を致して居りましたが、交通事故に因って足が不自由と成ってからは廃業し、子授け整体 ( 妊娠し易い身体造り ) の指導・相談にあたらせて頂いて居ります。
幼少の頃から、渋川流柔術を習い、免許皆伝を賜り、柔道・空手・合気道・剣術・弓道・槍術などを修め、段位を合わせると23段になりますが、寄る年波に、心も身体も丸くなったオジサンです。
粗忽者で自分勝手な性分で、挫折と後悔で構築された半生を歩んで来た私は、チビでデブでハゲの足の不自由な50過ぎのオジサンへと劣化の一途を辿り、私の姓である「土師」と書いて「恥」読む・・・そんな気さえ致します。
世には、パナソニック株式会社 の創業者である松下幸之助翁
や、ホンダ
の本田 宗一郎氏 の様な立志伝上の偉人も数多くいらっしゃいますが、そうした方々の言葉や人生が真で在るならば、私の如き愚者の人生や言葉も、「反面教師としては真である」との思いから、ブログを綴って参ります。
偉大な松下幸之助翁や本田総一郎氏と並べて記述させて戴いた事は烏滸がましい限りですが、私の如き愚者の失敗談などを聞いて、何かの教訓となさってくださる方が一人でも居れば幸いで在ると思って居ります。
サブブログ故、偶に思い立った時の更新に成ろうかと思いますが、更新した際は、アメブロ ・エキサイトブログ ・gooブログ の、其々の「アジアの片隅より」で御知らせする予定で居りますので、気が向きましたら訪ねて遣ってください。
私の好きな、砂糖を少し入れて冷やした焙じ茶の様に、素朴で、まったりとした、歳時記の様なブログにしたいと考えて居ります。
今日の名言・金言・・・『技術の上手下手ではない。その心が人をうつのだ。…小澤 征爾』 ・ ・ ・ アジアの片隅より
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長崎「原爆の日」と・・・
http://kishouhaji.exblog.jp/22361739/
2015-08-09T12:00:00+09:00
2015-10-19T23:21:11+09:00
2015-10-19T23:21:11+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
平和への祈りを込めて灯される蝋燭
今日、平成27年8月9日は、長崎「原爆の日」です。
70年前の今日、午前11時2分、アメリカの手に依って、ボックス・カーと名付けられたB29より、プルトニューム型原子爆弾「ファットマン」 が投下されて長崎市の上空で炸裂し、多くの人命が奪われ、長崎の街は壊滅させられました。
広島の惨劇と同様に、生き残った者は、「ヒバクシャ」として、苦しみの多い人生を歩まなければ成らなくされました。
敗戦から70年の時を経て、日本は物質的には豊かな国と成り、以後、兵器を使った戦争には、直接巻き込まれる事も無く、安穏な日々の生活の中で、70年前に起こった悲劇を忘れて仕舞って居りますが、この「安穏な日々の生活」こそが、先の大戦で命を賭して戦って無く成られた兵士の方々や、「戦争に於いて民間人をターゲットとはしてはならない」と言う国際法 の大原則を破った対戦国に、殺され傷付けられた民間人の方々の犠牲の基に齎された賜物で在る事を、私達は決して忘れてはならないと思います。
今日、招かれた料亭の厨房では、午前11時2分に、仕事の手を止め、西の方角(長崎の在る)に向かって、皆で黙祷を捧げました。
祖父や大叔母を原爆で亡くされている女将の意向に由るモノでした。
長崎に原爆が投下された、昭和20年(1945年)8月9日に、私達日本人が決して忘れてはならない出来事が有りました。
日本外相松岡洋右簽署《蘇日中立條約
日ソ中立条約 を一方的に破棄したソ連軍が、越境して進行した日です。
ソ連は、8月8日(モスクワ時間で午後5時、満州との国境地帯であるザバイカル 時間では午後11時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国 の参戦要請を受けた」として宣戦を布告 、事実上条約を破棄しました。
9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し、南樺太 ・千島列島 および満州国 ・朝鮮半島 北部等へ侵攻し、弱体化して居た日本軍は為す術が無く、ソ連軍は一方的な武力によって、民間人を含めた多くの日本人を殺し、殺戮と略奪を繰り返しました。
当時、中学2年生で、家族で満州に住んで居た知人の男性から聞いた話では、最初に送り込まれたソ連軍の兵士は、刑務所の受刑者を臨時の兵士として仕立てた、統率のとれない暴徒の如き集団で、「金品を奪い、女性を見付けると強姦し、証拠を残さぬ為に相手を殺す」と言う、残虐の限りを尽くす鬼の様な犯罪組織以外の何者でも無かったそうです。
男性は、「儂は、あの頃の事が、今でも忘れられんのんじゃ。儂はソ連が大嫌いじゃ。今でも憎んじょる。」と、語って居られました。
その後、ソ連は、民間人も含めた多くの日本人を強制連行してシベリアへ抑留し、極寒の地で、真面な食料も与えず過酷な労働を強いて多くの日本人の命を奪いました。
此れは国際法に照らし合わせれば、重大な戦争犯罪です。
にも関わらず、ロシアが此れについて謝罪した事は在りません。
また、ソ連は、戦乱のドサクサに紛れて、日本の領土を奪いました。
北方領土問題 として、日ロの懸案と成り、多くの方々が返還に向けて尽力されて居られますが、北方領土 と申しますと、歯舞群島 、色丹島 、国後島 、択捉島 、あの4島を思い起こされる方が多いと思いますが、国際法に照らし合わせて言うならば、日露戦争の際に、日本の領土と成った南樺太 までが、現在も日本の領土の筈です。
この事は、周知の事実で在る筈ですが、日本では多く語られる事は在りません。
私がマスコミを通して聞いたのは、竹田恒泰氏 のテレビ番組の中での発言だけだと記憶して居ります。
東西冷戦 に敗れ、経済的にも政治的にも、強国では無く成って仕舞ったロシアですが、核の武力と、国連常任理事国 と言う絶対的な立場を背景に、未だに強気の姿勢を誇示して居ます。
世界の各地で、未だに横暴を繰り返し、強健な姿勢を崩す事は在りませんが、ロシアが保有する旧式の核兵器でも、使えば人類を破滅させるに有り余る量を保有して居りますから、中東で行ったような遣り方は、流石のアメリカも強硬な事は出来ないでしょうし、して欲しくは在りません。
それにしても、暑い夏ですねぇ・・・。
もうすぐ、8月15日の終戦記念日が訪れます。
子供の頃、「戦争に負けたのに、何で敗戦記念日じゃ無ぉて終戦記念日なんかねぇ?」と、父に聞きましたら、
「日本はのぉ、本土決戦言ぅて、日本の国でアメリカやらを迎え打って戦う心算じゃったんよ。じゃが、それをしたら、大勢の日本人が死ぬ事に成るし、相手の国の兵隊さんも死ぬ事に成るけぇ、それを天皇陛下様が御望みに成りんさらんかったけぇ、ポツダム宣言 ゆぅアメリカやらの言ぅ事を受け入れて、戦争を終わらして、それを、玉音放送 言ぅて、自分の言葉で国民全員に戦争の終わりを知らして呉れんさったんよ。・・・日本は、戦争に負けそうなかったが、負けた訳じゃぁ無ぁんで、・・・あのまま、本土決戦に持ち込んじょったら、若しかしたら、アメリカやらも諦めて、戦争が終っちょったかも知れん。じゃが、大勢の日本人や敵国の兵隊が死んじょったじゃろおて・・・お父さんも死んじょって、アンタ等も産まれちょらんかも知れん。天皇陛下様は、国民だけじゃぁ無ぉて、敵国の兵隊の命も守ってくださったんじゃ。アンタ等の命ものぉ・・・それに、産まれて来たアメリカやらの子供等の命もじゃ。」と、話して呉れました。
父の話は、史実と多少異なる部分は在りますが、当時、小学生だった私には解り易く、今も大筋では此れが真実だと考えて居りますし、右翼思想の持ち主では在りませんが、昭和天皇に大恩を抱いて居りますし、今上天皇陛下を御尊敬申し上げて居ります。
以前から、8月6日の「広島の原爆の日」から、8月15日までの「終戦記念日」までを、「平和週刊」として休日とし、戦争や平和について学び考え、お盆でもある事から、先祖の墓参りや戦没者の供養をし、平和な世を築く礎と成ってくださった事に感謝し、「世界の恒久平和」実現の為に、国民一人一人が何を為し、どう生きるべきかを考える機会とする事を望んで居ります。・ ・ ・ アジアの片隅より
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アーカイブ」・・・亜細亜の片隅より ③
http://kishouhaji.exblog.jp/22361704/
2015-08-08T15:00:00+09:00
2015-10-19T23:11:44+09:00
2015-10-19T23:11:44+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。
8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。
【2015年1月23日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】
音戸の瀬戸
亡くなった伯父は、小学生の頃から日記を書いて居り、それを読ませて頂きました。
藁半紙のノートに綴られた日記は、小学生が書いたとは思えない様な、漢字ばかりが連なる、しっかりした文字で書かれており、学校での生活や、大連市 ( 祖父は、海軍に所属して居た頃、大連の基地に配属されて居り、父は、昭和9年に、大連で産まれました ) の街の様子まで、事細かに書かれて居りましたが、模型の飛行機を買って貰い、それを作って遊ぶ内に、帰りが遅くなり、曾祖母に、酷く叱られた事等、子供らしい出来事も書かれて居りました。
広島県立広島第一中学校に進学してからの日記は、革張りの重厚な手帳に書かれていて、遺品の万年筆 で書かれただろう、その文字は、素晴らしい程の達筆で、日々の生活に添えて、戦況の事や、今、自分の為すべき事や、将来の自分の夢について、熱く語られて有りました。
そして、亡くなった年の日記帳の最初の見開きに、『亜細亜の片隅より』 と、題された、一片の詩の様な、手記を見付けたのでした。
此処に、紹介させて頂きます。
亜細亜の片隅より
亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 皇国を思う
亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 異国を思う
亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 朝(あした)を思う
亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 昨日を思う
命は何処へ逝く 魂は何処へ行く 此の哀しみは何処へ往く
斗わねばならぬ 勝たねばならぬ
勝てば命を奪ふ 親を奪ふ 兄姉を奪ふ 友を奪ふ
涙を産み 哀しみを産み 怒りを産む
亜細亜の片隅の濱辺に立ちて
自らを 戒め 鍛え 努力し
広く 温かな 手のひらを持って
いつか手を取り合わん
いつか語り合わん
未だ見ぬ 異国の人々よ
昭和二十年七月二十七日 亜細亜の片隅より
これが、伯父が記した手記です。
現在の呉港
これを書いた、10日後に亡くなった分けですが、実は、これを書いた3日前の、7月24日に、呉海軍工廠への空爆 により、大好きだった、二人の姉 ( 次女と三女 ) を同時に失うと言う、痛ましい出来事が有りました。
次女と三女は、祖父の計らいで、呉海軍工廠で、給仕係として働いており、爆撃を受けた建物の下敷きとなって亡くなられたそうです。
恐らく、二人の姉の葬儀の日に、書いたものと思われます。
この年の3月に、尊敬していた叔父が、ビルマで戦死したと言う訃報を受けて、深い悲しみに打ちひしがれ、哀しみも癒えぬうちの、二人の姉の死は、伯父にとって、いかばかりで有ったか、量り知る事は出来ません。
文面から感じる心の葛藤も、量り知る事は出来ません。
異国の人と、何を語り合いたかったのでしょうか。
祖父は、私が生まれる2年前に、亡くなって居りますので、祖父を知りません。
私が伝え聞いている事と言えば、第一次大戦の、徴兵検査で、5尺9寸(約180㎝)・21貫(約80㎏)の大男だった事と、禿頭のクセに、女性にはマメで、死ぬ間際にも、20歳年下の現妻 ( ゲンサイ・彼女 ) が居たと言う事くらいです。
二人の娘の死、続け様の息子の死に、どれ程の辛さに襲われたのでしょうか。
今は無くなった風習ですが、当時は、親よりも先に死んだ子供は、「親不孝者」とされ、親は、葬儀に立ち会えない決まりとなって居たそうです。
祖父は、娘の葬儀には一切係われず、葬儀の間、親戚の家で、独り ( 祖母は、私の父が、3歳の時に、12人目の子供を出産する際、難産の末に亡くなって居ました。その後、子沢山の上に乳児を抱えた、祖父の窮状を見かねた上官の計らいに依り、海軍を退役する形で、実家の在る、呉海軍工廠に勤務する事となり、大連市から音戸へ帰ったのでした ) で、過して居たそうです。
そんな事の直後だったからでしょう、瓦礫の散らばる、煙と埃だらけの道を、誰の手も借りず、息子の遺体を抱きかかえて運んで行きました。
父の家族は、日中戦争 から、大東亜戦争 の間に、母、長男(海軍少尉でしたが、ミッドウェー海戦 で戦死)、七女(3歳の時に病死)、次女(戦災死)、三女(戦災死)、三男(戦災死)と、六人の家族を失いました。
今、聞くと、大変な出来事ですが、これが普通でした。
そう言う時代でした。
広島市平和記念式典
昨年末辺りから、戦後70年と、よく言われます。
戦争の記憶の風化が、もう、随分前から叫ばれています。
70年前、父の家族を襲った不幸は、日本中に、世界中に、満ち溢れて居た出来事です。
もう10年もすれば、戦争を体験した人は、殆んど居なくなるでしょうし、20年経てば、全くと言っていい程、居なく成ります。
その時、この国は、どうなって居るのでしょうか? ・ ・ ・ 新たな戦争体験を、していないと言い切れるでしょうか?
音戸の伯父さんが言っていた様に、「良い国」には成れないのでしょうか。
私には、アメリカ人の友人は居ますが、アメリカと言う国家は嫌いです・・・しかし、右翼思想者では有りません。
かと言って、左翼思想者でも有りませんから、高校生平和ゼミナールの活動から離れて行きました。
亡くなった伯父の日記を読んでから、右 も左 も、必要ない事に気付きました。
それ以来、友人等への手紙の結語の代わりに、アジアの片隅よりと、記す様に成りました。
今、市役所 の前を通る度に、伯父や祖父や父の事が思われ、辛い気持ちになるのでした。・・・・アジアの片隅より
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「アーカイブ」・・・編集後記
http://kishouhaji.exblog.jp/22361732/
2015-08-06T20:00:00+09:00
2015-10-19T23:19:07+09:00
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ajianokatasumiyor
反核・平和
平和記念式典
今年も、8月6日が訪れ、広島市の平和公園では、強い日差しの降り注ぐ蒸し暑さの中で、平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式) が行われました。
先の大戦から70年、被爆から70年の時を経て、人も政治も時代も世界情勢も、大きく様変わりを致して居りますが、「核兵器の廃絶と世界恒久平和」を実現したいと願う心は変わる事は無いと、否、益々強く成って居ると考えて居ります。
8月1日から8月6日に掛けて、「アーカイブ」として過去の原爆に纏わる記事を掲載して参りました。
これは、8月1日から8月6日までの記事を、7月20日に予約投稿した記事です。
7月末に引っ越し(色々な事情に因り中止いたしました)を予定して居りまして、引っ越しした場合、当面、インターネットへの接続が困難になる事と、引っ越しに伴う雑務で、ブログを書く余裕が無いと思われた事も有ります。
しかし、一番の理由は、「アーカイブ」として予約投稿した記事は、私がブログを再開してから間もない頃の記事で在った為に、閲覧者数が少なかった為、特に此の時期に再度投稿する事に由って、一人でも多くの若い世代の方達に読んで頂きたいと考えたからで、8・6に合わせて再度投稿する事は5月頃から予定して居りました。。
失敗と恥と後悔で構築された様な私の半生ですが、私の様な愚者の失敗談を反面教師とする事も、若い世代の方には必要で在ろうと考えて居ります。
多くの方からメッセージを戴きました。
ブログにコメントをくださった方も御座います。
私の様な愚者のブログに対して、メッセージやコメントを寄せてくださり、本当に有難う御座います。
全て、在り難く感じながら拝読させて戴きましたが、仕事や雑務に追われ、すぐには返信を出来ない場合も御座いますが、出来る限り間を開けずに返信させて戴きますので御理解くださいます様、宜しく御願い致します。
子供の頃(私は昭和36年・1961年生まれです)に、両親に連れられて広島市内へ出ますと、酷い火傷の痕の在る人をよく見掛けました。
その事を母に問うと、 「たいがい(恐らく)、ピカ(原子爆弾の俗称)にあいんさって火傷をされたんじゃろぉてぇ・・・いとぉしい(気の毒な)のぉ・・・アメリカに遣られたんじゃけぇ、きびが悪りぃ(気持ちが悪く)思ぉたり、笑ぉたりしちゃぁいけんで・・・全部、戦争が悪りぃんじゃけぇ。」と、話して呉れました。
高校生の頃、そんな子供の頃の話を父としていた時、「そぉ言ゃぁ、この頃は、ピカの火傷をした人を見んよぉに成ったねぇ。」、話しますと、
「ほぉじゃのぉ・・・儂も今頃、見んよのぉ・・・昔は、よぉけ(沢山)居りんさったがのぉ・・・そぉ言ぅ人等は、ピカの後遺症の影響で、長生き出来んかったんかも知れんのぉ・・・父さんも、ピカが落とされた次の日に、広島の街をあんやん(兄さん)を探すのに歩いたけぇ、長生きが出来んかも知れんのぉ。」と、話すのを聞きながら、言葉にはしませんでしたが、言い様の無い不安と淋しさを憶えたのを記憶して居ります。
父は、平成20年に、心筋梗塞の為に、74歳で亡くなりましたが、それまでに2度、癌の手術をして居りました。
父が被爆した事と、癌を患った事の因果関係は解りません。
しかし、全ての「ヒバクシャ」は、被爆した事での身体への悪影響を、常に心の何処かに意識しながら生きて来たと思います。
父は豪胆な人物でしたが、 「父さんはのぉ、自分の子供に、何かピカの悪い影響が出ゃぁへんか思ぉちょったけぇ、アンタ等が産まれるたんび(毎)に、冷や冷やしよったんじゃ・・・じゃが、何の障害も無ぉ産まれて来て呉れたけぇ、神さんに手ぇ合わしたんでぇ。」と、語ったのを憶えて居ます。
全ての「ヒバクシャ」は、被爆した事での我が子への悪影響を、常に心の何処かに意識しながら生きて来たと思います。
松井一実広島市長 は、平和記念式典で、全世界に向けて「平和宣言」を読み上げました。
その文面は世界各国に送られ、メディアやネットを通じて世界中に配信されたでしょう。
しかし、その思いや願いが、どれだけ伝わるのかは分かりません。
原子爆弾を使用した事は、人類史上、最も残酷で重大な、戦争犯罪の一つです。
本来ならば、加害者であるアメリカ合衆国は、世界中から、アドルフ・ヒトラー と同等の非難を浴び、我が国やヒバクシャに対して、深く謝罪し、莫大な損害賠償金を支払い、自らの罪の償いとして、「核兵器廃絶」と「世界全体の恒久平和」の実現の為に、その先頭に立って戦わなければ成らない責務を負って居る筈です。
しかし、現実は真逆です。
未だに、「原子爆弾の使用によって、戦争を早く終結させ、より多くの人命を救った」と、とんでもない理屈を主張して憚らない恥知らずです。
「世界の警察」を自負しながら、その裏では、戦争を画策し、介入し、石油等の利権を握り、或いは武器を売りつけ、莫大な利益を得て居ます。
70年前、広島と長崎に投下した原子爆弾の威力を世界に知らしめたアメリカ合衆国は、「核兵器の力」を背景に、政治・経済・軍事の面で、優位な地位を確立し、莫大な富を得て来たのです。
その富を背景にして、更なる「甘い汁」を吸う為に、更に強力な核兵器を開発して行き、軍事力を増大して来ました。
私が許せない事の一つは、まるで罪の償いをするかの様な顔をして、放射線影響研究所 を設立し、その裏では、原子爆弾の人体に対する影響のデータをとり、様々な関連分野の資料とした事が在ります。
ヒバクシャをモルモット扱いです・・・こんな行為が許されているのです。
アメリカ合衆国大統領就任式 では、宣誓の際、左の手のひらを聖書に置いて宣誓する事が慣例(決まりでは無いそうです) と成って居ますが、聖書の何処にも、この様な残虐な横暴が許されるとは書かれて居りません。
私は、基督教徒では在りませんが、聖書 は、イエス・キリストの生涯や教え、弟子達の残した教えが記された素晴らしい書物だと思いますし、人としての道を説いた聖人として、イエス・キリストを尊敬して居ます。
聖書に照らし合わせるならば、彼等の行為は、神との契約を裏切り、神を冒涜した行為であり、神の対極にある、悪魔と吸血鬼の行いです。
大半の国民が、基督教徒であるアメリカ合衆国の国民の半数以上が、「原爆の使用は正しかった」と答える彼等の信仰心に疑念を抱かざるを得ませんし、「その統計調査は本当に正しいのか?」「本当のアメリカ人の本心なのか?」とさえ、疑って仕舞います。
私には、数人のアメリカ人の友人が居り、武道を通して知り合いましたが、人情家で喜怒哀楽の表現が豊かで、日本人以上に、日本の文化に畏敬の念を抱いて居り、何よりも日本の自然や風土を愛して居ます。・・・殆ど英語の話せない私を友とする程、日本語が達者です。
アメリカ人は大好きですが、アメリカ合衆国と言う国家は嫌いです。
その行いに強い憤りを禁じ得ず、憎んでさえ居ます。
今朝、仕事に向かう前に、平和記念式典に出席して参りました。
亡き父の名代を兼ねての出席です。
人が多く集まる場所・暑い場所の苦手な私は、成人してからは、平和記念式典に出席した事は在りませんでしたが、父が亡くなってからは、出来るだけ出席する事にして居ります。
今日も暑かった・・・。
不謹慎ですが、黙とうを捧げる折、父や伯父や祖父への思いや、原爆に由って命を奪われた方々や、被爆しても「ヒバクシャ」として生き残り、苦しみの多い人生を歩まれた方々への思いよりも、「暑い‼」と言う思いの方が優って居りました・・・愚者である息子、愚者である孫、愚者である甥、愚者である私を許してください。
式典が終わった後、運良くタクシーを拾う事の出来た私は、エアコンの効いた車内で、ホッと安堵して居りました。
車内から、警察に誘導されながら、プラカードを掲げて、シュプレヒコールを上げて沿道を進んで行く、集団の隊列を眺めて居りました。
ふと、「世界が全体 幸福でなければ 個人の幸福は在り得ない」と、言う、心の師である、宮澤賢治先生の言葉が、心に浮かんで参りました。
先生が理想とされた世界の実現は、遠く険しく困難で在ると知りつつも、「一歩でも・・・」との思いを新たにした、2015年8月6日の朝でした。・ ・ ・ アジアの片隅より
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「アーカイブ」・・・瓦片への思い ③
http://kishouhaji.exblog.jp/22361728/
2015-08-06T08:15:00+09:00
2015-10-19T23:17:36+09:00
2015-10-19T23:17:36+09:00
ajianokatasumiyor
反核・平和
広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。
8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。
【2015年1月26日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】
灯篭流しの光景
もう、40年近くも前の出来事なので、正確な日にちは、定かでは在りませんが、大学教授による、瓦片の鑑定結果が出たのは、初秋の事だったと思います。
社会科学研究同好会(通称・社研)の、放課後のミーティングの時に、大亀先生から報告が在りました。
先輩達は、一様に喜んで居ましたが、私は心の中では、複雑な思いが渦巻いていて、心から喜ぶ事が出来ませんでした。
その頃の私は、先生や先輩達の活動に、共に参加して行く事が、微力で在っても、「恒久平和」に繋がる活動だと、純粋に考えて居ましたが、瓦片の件で父に叱られて以来、社会全体の情勢や、周囲の意識の中での自分と言う存在を、客観的に、観たり考えたりする様に成りました。
そもそも父は、私が瓦片を持ち帰った事を叱ったのでは有りません。
悲劇の証とも言える瓦片を、宝物でも発見したかの様に、喜び燥いで居た私に、激怒したのでした。
色々と考えて居る内に、活動に疑問を持ったと言うのでは無く、何が正しく、何が違うのかが分からず、どうして良いのかが、全く分からなく成って居ました。
私が、「分からなくなった」、最大の要因は、原水協 と原水禁 の存在でした。
昭和30年(1955年)に結成された 、原水爆禁止日本協議会は、意見の対立により、昭和40年(1965年)に、原水爆禁止日本協議会 と原水爆禁止日本国民会議 の、2つの団体に分裂しました。
その経緯については、長く成りますし、私の表現力では、誤解を招いて炎上し兼ねませんので、此処を御読みください。
此処⇒原水禁は何故二つに分かれているのですか?
原水協の中の、主流派であった共産党 系の会員と、反主流派とされた社会党 系の会員との、党の意向に由る分裂でした。
広島の、反核・平和運動を牽引する、この二つの大きな団体は、少なからず、高校生の活動に影響を及ぼしており、当時の私の考えでは、原水禁の方に、幾らか部が在ると観て居りましたが、私が参加していた活動の周囲は、原水協に属する先生方が大半を占めて居たのでした。
当時の高校生の活動は、安田女子中学高等学校 ・広島県立広島商業高校 ・山陽高等学校 ・広島県立広島観音高等学校 ・広島電機大学付属高等学校 の、社会科学研究部や同和問題研究部が中心となって、活動して居ましたが、顧問の先生方は、原水協に属して居られた様で、その影響を大きく受ける形と成って居りました。
私は、そんな思いを誰にも相談出来ないまま、それでも一生懸命に活動に参加し続けて居りました。
翌年(相和53年・1978年)の2月、広島高校生平和ゼミナール が設立され、それにも携わって居りました。
「政治や、イデオロギー に関係無く、目指す目的が一番大切だ。」と、考えて居たからです。
私が、伯父の遺品を見せて頂く為に、父の実家を訪ねたのは、その頃の事でした。
伯父の日記を読んで、触発された私は、高校に入学した頃から読み始めた、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (キング牧師)の伝記や著書や、広島と縁が深く、中学生の頃から憧れていた、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ (チェ・ゲバラ)の著書を読み進め、比較したり、色々と考えを深めていく内に、どうやら、間違いとは言い切れなくとも、今、遣っている活動は、偏っているように思えました。
しかし、何を為すべきか、どう進むべきかは、皆目見当が付かないで、周りの勢いに流されながら、日々を過ごして居ました。
奇しくも、伯父が亡くなった、16歳でしたが、伯父の様に明晰な頭脳も無く、幼少の頃から習っていた柔術や、師事していた占術や、ドライブインでのアルバイト等、遣りたい事が沢山在って、学ぶ事に身が入らず、『伯父さんだったら、どうされただろうか?』と、いつも、想像して居りました。
そんな風に過ごして居た2年生の春、ある先生から、『生徒会の活動に、お前の力を貸して欲しい。』と、声を掛けられました。
当時、私の学校 は、『不良校』と目されて居り、小規模な女子商業科と、普通科に、数名の女子生徒が居りましたが、ほぼ、男子校で、当時は、近隣に在りました、広島朝鮮中高級学校 の生徒との対立なども在り、一部、荒れた生徒も居りましたが、進学校でないぶん、伸び伸びとした気風に溢れて居りました。
「平和運動も、えぇんじゃが、自分が居る学校を良ぉして行く事から始めて行くんも、平和運動に繋がるんじゃないか。」との、先生の言葉に便乗する形で、生徒会の活動に加えて頂きました。
生徒会の活動に参加してからは、社研の活動から離れ、私なりに、一生懸命頑張りました。
大した成果は上げられませんでしたし、周りの方々に迷惑ばかり掛けて仕舞いましたが、頑張った分だけ、微細ながらも成果が目に見え、遣り甲斐を感じる事が出来ました。
原爆犠牲ヒロシマの碑
その後、我が校の社会科学研究同好会は、クラブへと昇格し、広島高校生平和ゼミナールの活動 の、中心的な存在と成って行き、私等が拾った瓦片は、「被爆瓦」 と呼ばれる様に成りました。
昭和55年(1980年)に、私は、京都の大学に進学する為に、広島を離れました。
2回生の時の夏休みに、帰省した私は、久し振りに平和公園を訪ねました折、河原に大勢の人達が下りている光景に出合いました。
すぐに、原爆瓦を拾っているのだと解りました。
ワイワイ、ガヤガヤと賑やかに作業している様子を観て、あの日の自分を見ている様で、とても切なく成りました。
それと同時に、何か、遣り残して仕舞ったモノが在った事にも気付きました。
先日、私にコメントを下さった、広島の高校生の皆さんへ・・・人生には、後から気付く事が多いのです。
「もし、あの時、こうしていたら・・・。」と、思う事ばかりです。
だからこそ、「あの時、あれだけ悩み抜いて選んだ結果だから・・・。」
「あの時、あれだけ努力して頑張った結果だから・・・。」 と、悔いを残さずに、前向きに受け止められる様に、今、出来る限り悩んで考え抜き、出来る限りの努力をなさってください。
これが、反面教師として、彼方達に未来を託す、愚者である私の願い です。・・・アジアの片隅より
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